現在地上波で放映されているテレビのバラエティ番組で、筆者が毎週見ているものは、特番を除くと、以下の5つである。1週間の中の放映順で以下に並べる。
目前正在播放的電視綜藝節目中,筆者每周都看的,除了特別節目之外,就是以下五種了。下面列出了一周中的放映順序。
とんねるずのみなさんのおかげでした(富士電視・星期四21點-)
雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!(朝日電視・星期四23點15分-)
めちゃめちゃイケてるッ!(富士電視・星期六19點57分-)
笑點(日本電視・星期日17點30分-)
ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!(日本電視・星期日23點25分-)
なぜこの5つなのか? という説明から始めたい。
為什麼是這五個呢?下面讓我來說明一下。
まず、「笑點」を見る理由は他の4つとは少し毛色が違う。筆者は、趣味でいわゆる「ハガキ職人」もやっているのだが、「笑點」はその界隈では頻繁にネタにされるので、何かネタにできる箇所はないかを見つけるために見ているのである。
首先,看《笑點》的理由是它的風格跟其他四個不太相同。筆者因為興趣所在,也在畫明信片做「明信片達人」,由於《笑點》經常能給我提供相關的段子,為了尋找任何能成為段子的素材,我才看了《笑點》這個節目。
ただ、この「ネタにできる箇所」がたくさん出てくるわけではないので、毎週見る必要性は正直言ってない。なので、録畫もしていないし、何か他のことをやっていて見忘れても気にしない。「笑點」は、別に筆者が見て笑える番組ではない。
但是,這個「獲得素材的地方」並非能從中獲取很多,說實在的並沒有每周都看的必要性。因此,也沒有錄像,即使有事情忘記看也沒在意。《笑點》並不是筆者看了就能笑出來的節目。
「笑點」の笑いは、完全に高齢者向けの笑いである。高齢者、すなわち、認知と記憶の能力が減退し、新規の物に対する知識を得ることが難しくなっている人たちを相手にすることになるため、分かりやすさが求められる。そのため、高齢者向けの笑いは、とかく若い世代からは「レベルが低い」という評価をされがちである。
《笑點》的笑料,完全是面向高齡人群的。高齡者,也就是說,認知和記憶能力減退,對新鮮事物的知識獲取越來越難,由於把這樣的高齡者作為對象,所以要求笑點一定要容易理解。因此,面向高齡人群的笑料,往往容易從年輕人那裡得到「水平很低」的評價。
ただ、高齢化が進んだこの日本において、若い世代がテレビにそっぽを向いた今の時代において、完全に高齢者向けの番組作りをしている「笑點」が化け物のように數字を稼ぐのもまた一つの事実である。筆者は、「高齢者が好きな笑い」と「若者が好きな笑い」は、レベルの高い低いではなくて、単純に好き嫌いの問題に過ぎないのではないかということも最近思っている。だから、ただ単に「レベルが低い」と切り捨てているだけでは進歩がないのではないかと考えているが、まだ結論は出ていない。
但是,在老齡化不斷發展的日本,在年輕一代無視電視的這個時代,完全面向高齡人群而製作的節目《笑點》,卻出乎意料地獲得人們的喜愛也是另一個事實。筆者最近在思考「老年人喜歡的笑料」和「年輕人喜歡的笑料」的區別,二者並不是水準的高低,只不過是單純的喜好問題。所以我在考慮,僅僅因為「水平低」這樣的評價就捨棄了這個節目是不是毫無進步呢,但是我還沒有得出結論。
「笑點」以外の他の4つは、筆者が「おもしろいかもしれない」と期待しているから見ている番組である。といっても、最近は期待を裡切られることの方が多い。見始めてまだ1年ちょっとしか経っていない「アメトーーク」を除けば、他の3つは過去には確実に「おもしろい」から見ていた。おもしろい時代があったからこそ、今になっても「おもしろいかもしれない」と期待してしまって、見ることになるのである。
《笑點》以外的其他四個節目,筆者帶著「可能挺有意思吧」這樣的期待去看節目。雖說如此,近期卻有很多讓我期待落空的地方。除了只開始看了一年左右的《アメトーーク》之外,其他三個節目過去確實因為挺有意思才看的。正因為有過十分有趣的時代,即使到了現在也抱著「可能挺有趣」的期待去看。
しかし、とんねるずは耐用年數の過ぎた芸人であり、「めちゃイケ」もスタッフの劣化が否めない。「ガキの使い」もダウンタウンの高齢化によりキツさがパワーダウンしている。いずれも閉塞感は否めない。
但是TUNNELS是超過了年限的藝人,《めちゃイケ》也不能否定工作人員的退化。《ガキの使い》也是由於日本很有名的搞笑藝人組合ダウンタウン的高齡化導致競爭性下降。無論如何也無法否認閉塞感。
今となっては、「アメトーーク」も含めて、ほとんど批評するために見ているような狀態である。ただ、批評するために見る番組の共通點としては、「基本的に毎回やっていることが違う」ということが挙げられると思う。
到如今,包含《アメトーーク》在內,大部分是因為吐槽才去看的。但是,我覺得「基本上每回的內容都不一樣」可以說是這類節目的共通點。
ただそれにしても見る番組は少ない。見るべきバラエティ番組は、どんどん減っている。その大きな要因は、インターネットでやっている笑いの方が先鋭で質が高いからである。テレビでインターネットに匹敵するほど刺激的な笑いを提供してくれるものは、地上波では深夜でもできないようなどぎつい下ネタぐらいしか思い浮かばない。
但是如果那樣的話能看的電視節目就少了。可以看的綜藝節目,正在漸漸減少。主要原因是,在網絡上搞笑的人們夠激進而且質量高。電視上若要提供能和網際網路程度匹敵的刺激性笑點,大概只能說一些比深夜檔更黃的黃段子吧。
筆者は、もはやテレビは「笑い」に見切りをつけないと生き殘れない位置に來ていると思っている。それはすなわち、フジテレビの黃金時代の終焉でもある。
筆者認為,現如今電視節目為了存活必須放棄「搞笑」了。也就是說,富士電視的黃金時代終結了。
テレビはどこに活路を見出すか。筆者が考えていることの一つは、今までに培ってきた取材能力を活かせる番組である。一つにはニュースであって、もう一つはNHKスペシャルに代表されるような本気のドキュメンタリーである。
電視要怎樣才能找到一線生機呢?筆者想到的一方面內容是,活用至今為止培養的取材能力的節目。一個是新聞,另一個是以NHK專題為代表的紀實片。
民放のバラエティでは「衝撃映像」系の番組をよく見るが、取材が足りないので使える映像の尺が短く、結果「煽り」の演出と、スタジオでのタレントのトークで尺を稼がざるを得ないというなんとも密度の低いものが出來上がっている。また、民放にはスポンサーという制約があるため、何かを紹介するにしても、例えばその負の面までは遠慮して紹介できていないことも間々ある。それでは子供だましの番組しかできない。
民營電視臺的綜藝中筆者經常看「衝擊影像」類型的節目,但是因為取材不足,使用的影像長度短,最終只能靠後期效果和在播音棚的藝人談話來撐滿時間,所以密度低也是沒辦法的事。另外,民營電視臺還有贊助商的顧慮,介紹時也必須避開負面消息,導致節目具有了欺騙性。
そんなことにならないように、綿密に丁寧に取材を重ねて、きちんと本題だけで尺が埋まるほどの映像を用意し、視聴者の知的訴求に訴えるように取材対象の正の面も負の面もしっかりと伝えるのである。このような取材の能力やノウハウは、インターネットにはまだない。
為了避免這種事態,電視節目應該精心周密地反覆取材,充分準備能填補正題長度的影像。同時為了回應觀眾的知識訴求,取材對象的正面和負面都要好好的傳達。網絡上還沒有這樣的取材能力和技術竅門。
題材は、何でもいい。動物にスポットを當てれば「ダーウィンが來た」のような番組になる。人にスポットを當てれば「プロフェッショナル」になり、歴史にスポットを當てれば「その時歴史が動いた」や「歴史秘話ヒストリア」になる。
什麼題材都可以。如果關注動物的話就像《達爾文來了》這樣的節目。關注點是人的話就像《プロフェッショナル》,關注歷史就像《轉動歷史的時刻》和《歴史秘話ヒストリア》。
この手の番組には、タレントは不要である。分かりやすいナレーションさえあればいいので、せいぜいナレーション役に芸能人を一人使うぐらいでいい。
這種類型的節目,不需要藝人。因為只要有容易理解的旁白,最多只要有一個藝人來出演旁白就可以了。
取材した內容をVTRで伝えられればいいので、いわゆる「スタジオ部分」でタレントたちに淺薄なトークをさせる必要もない。タレントにギャラを払うなら、その予算を取材と編集に回した方がいい。
因為取材的內容用VTR來傳達比較好,所以沒有必要讓藝人們在所謂的「攝影棚部分」進行膚淺的談話。如果給藝人支付片酬的話,把那個預算撥給取材和編輯比較好。
芸能事務所と手を切って、歐米の自然科學番組のように綿密な取材と編集に裡付けられた質の高いドキュメンタリーを作る。これがテレビの生き殘る道だと思っている。このままの狀態が続けば、芸能事務所と一緒に共倒れだろう。
跟演藝公司分道揚鑣,像歐美的自然科學節目那樣,製作能保證縝密的取材和編輯的高質量紀錄片。我覺得這才是電視的生存之道。要是繼續目前的狀態的話,就得跟演藝公司一起同歸於盡了吧。