徐蘊儀,本科2017級。已獲得國家留學基金委優秀本科生項目資助,9月將赴東京大學教養學部交換留學。
鄭清茂譯註《平家物語》,譯林出版社,2017年
『平家物語』の冒頭の部分には、「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」と書かれている。
それを読むと、『洛陽伽藍記』の序文が思い出される。『洛陽伽藍記』は中國北魏時代の楊衒之の記録文であり、洛陽の諸寺の舊聞および政治、風俗、人物などの移り変わりを記したものである。楊衒之が役向きの旅の道すがら、再び洛陽を見る機會を得て、「都の內外の千をも越えた寺々は、今やがらりとした廃墟となり、鐘の聲は聞こえることもない」と世の動亂によって荒れ果ててきた洛陽城を序文に描いている。本稿では、『平家物語』の冒頭文と『洛陽伽藍記』の序文を簡単に比較してみたい。
まず、両者は全體的に、いずれも仏教思想が色濃く流れている。『平家物語』の冒頭文には、全書を貫く無常観と因果応報の仏教理念を韻文で語られているが、『洛陽伽藍記』の序文には、「かくて寺院は軒をならべ、堂塔は列をなし、競って天上のお姿を寫し取り、爭って山中の御影を模寫した。金剎は霊臺と高さを競い、講堂は阿房と規模を同じくした」という過去の仏寺の壯大さに対する絶賛がある。『平家物語』の時代では、動亂と天災で不安な人々は仏教に救いを求めた。北魏では、仏教は帝室と王族の護持に支えられて推進され、國家宗教となったともいえるほど興隆し、國民に信仰されていた。また、『平家物語』の冒頭文は平家一門の盛衰への哀切な嘆きだったというならば、『洛陽伽藍記』の序文は栄華を極めた北魏王朝への悲しい輓歌といえよう。
そのうえ、『平家物語』の冒頭文は人物に重點が置かれ、平清盛の先祖を尋ねるのに対し、『洛陽伽藍記』の序文は寺院などの建築物を中心とし、それらの興廃をめぐって王室および貴族、僧侶、奇人などの姿をいきいきと描き出すとともに、パノラマのように當時の場面を次々と展開している。要するに、両者の著眼點が違うのである。全巻から見ると、『平家物語』の「盛者必衰、諸行無常」という無常観の主題は登場人物の運命によって示されているが、『洛陽伽藍記』は仏寺の壊滅を通じて衰亡しつつある北魏という國の命運、および治亂興亡の法則を表している。
そのほか、『洛陽伽藍記』の序文の帯びた主観性は『平家物語』の冒頭文と比較するとより著しいと思われる。『平家物語』には前代の支配者と新しい統治者が描かれている。『平家物語』の作者は前者には徳行がないために後者がそれに代わって支配者となったことを明らかにした。例えば、冒頭文に趙高や王莽、朱異、安祿山などの典故が用いられ、儒教的な倫理を通じて主人公の平清盛も悪行者だということが示されている。その反面、『洛陽伽藍記』の作者の楊衒之は昔北魏に仕えたので、遺民の立場から自身の生の體験をそのまま述べた。序文に、「城壁は崩れ落ち、宮殿は傾き倒れ、寺院は灰燼に帰し、廟塔は廃墟となっていた。塀は八重むぐらに蔽われ、巷には荊が生い茂り、荒れた階には野獣が住みつき、庭の木々には山鳥が巣くっていた。遊んでいる子供や牧童たちは、都の大通りをうろつき廻り、農夫や老いた耕作人らは、宮城の門のところで黍を刈っていた。」という想像を絶する痛ましい光景が書かれている。見る影もなく荒廃した洛陽を目にした筆者楊衒之の悲嘆は、「麥秀」「黍離」という『詩経』などからの典故を通じて表され、彼は序文にある「あの麥秀の思いは殷の廃墟を見た古人だけの話ではないこと、また黍離の悲しみは正しく周の滅亡の実感であったことを思い知ったのである」という文章により、在りし日の都の繁栄を偲び、自分の心境を読者に伝えようとすることが感じ取られる。そのため、人物の描寫と筋の展開に勝った虛構的な色彩のより濃い『平家物語』と比べると、洛陽にあった伽藍の歴史とそこに生きた人々の物語を書き留めている『洛陽伽藍記』のほうが真実、あるいはこの幻のような洛陽城がいかにも存在した証だと斷じても過言ではない。
偶然、『平家物語』の冒頭文と『洛陽伽藍記』の序文はいずれも「鐘の聲」という言葉がある。それに応じ、繁盛した平家一門と北魏洛陽城はあたかも鐘の聲のごとく風と共に去ってしまったが、すぐれた文學作品こそずっと後世に読み継がれる。