発表者(発表順)
研究集會運営委員會企畫
落合修平(明治大學兼任講師)
研究発表
岸本恵実(大阪大學)
章 瑋 (筑波大學大學院生)
◆研究集會運営委員會企畫
落合修平(明治大學兼任講師)/午後1時05分開始(予定)
芥川龍之介晩期文芸観の研究
―意図・推論・全集の外―
十年前から芥川龍之介の晩期文芸観の研究にかかずらっており、先頃その途中経過を博士論文としてまとめた。彼の文芸観は體系的な著述によっては示されておらず、また例えば晩期文芸観の鍵語である「詩的精神」を取ってみても、その定義が曖昧かつ具體性に欠けることは度々問題とされている。斷片的で論理展開の厚みにも乏しい芥川の文芸観を研究の対象とすることの意義は何処にあるのかと問われたとして、批判的に省みれば、學位論文の結論で示した自らの研究の意義も既存の研究を更新するというだけのものに過ぎない。
約十八萬字を費やした芥川の文芸観に関する具體的な考察は、彼の批評言語の限界の背後に、思いの外に豊かな(と私には思える)領野のあったことを様々に示そうとしている。例えば「海のほとり」や「蜃気樓」といった「「話」らしい話のない小説」の分析や、同時代における絵畫芸術への眼差しやクローチェやボードレールの芸術観の影響などを再検討することによって、時に同義反復的で貧寒なものとも見える「詩的精神」の主張が、如何に具體的な表現意識と結びついていたのかを問い、また先行研究には欠落していた葛西善蔵への評価や「獨逸の初期自然主義」への検討を補うことなどを通して、晩年における芥川の文芸観と同時代のそれとの結びつきを問うた。
本報告の目的ないし課題は次の二つである。一つは學位論文における問い/研究成果を諸氏と共有し、企畫後半の議論のための簡単な土臺作りをすることである。いま一つは、あるいは他山の石としてでも、これから修士論文・博士論文を提出しようとする大學院生にとって有益であるよう、私自身の學位論文執筆における経験、論の構成や推論の展開、資料の扱いの実例などを語ってみるということである。
◆研究発表①
岸本恵実(大阪大學)/午後2時20分開始(予定)
「奉教人の死」「きりしとほろ上人伝」の外來語表記
芥川が「風変りな作品二點に就て」(1926)において述べているように、「奉教人の死」(1918)・「きりしとほろ上人伝」(1919)はそれぞれ、キリシタン版の『天草版平家物語』(1592)・『天草版伊曽保物語』(1593)の文體に倣ったものである。芥川は、ローマ字印刷されたこれら二點を、新村出が漢字ひらがな交じり文に書き換えて掲載した『南蠻記』(1915)・『文祿舊訳伊曽保物語』(1911)を通じて読んだと考えられる。
「奉教人の死」「きりしとほろ上人伝」では、「くるす」(原語Cruz、十字架)、「えじつと」(原語Egypt、エジプト)など地名・人名を含む外來語の多くが、一重鉤括弧でくくるひらがな音寫の形で表記されている。外來語は、大正期すでに漢字ひらがな交じり文にカタカナで表記する方法が一般化しており、ひらがな音寫の形はキリシタン版など近代以前の資料に倣ったとみられるが、キリシタン版とは一致しないところがある。芥川が意図して獨自の表記を採ったことは、「奉教人の死」発表後に新村出から「ろおらん」を「ロレンソ」に、「れげんだ・おれあ」を「れぜんだ・あうれや」に改めることを提言された後、『傀儡師』(1920)収録時「ろおれんぞ」「れげんだ・おうれあ」と変更したものの、完全には従わなかったことなどからも窺い知られる。二作品の外來語表記は、古めかしさや南蠻風を表す表現効果を重視しつつ、読者にとっての理解しやすさという機能面も勘案して採用されたものと推測される。
◆研究発表②
章瑋(筑波大學大學院生)/午後3時40分開始(予定)
芥川龍之介一九二一年の中國旅行と「奇遇」の虛実
―「絹帽子」と「「雛」草稿」の直筆資料から見えるもの―
「中央公論」大正十年四月號に掲載された「奇遇」は、作品の內容や、執筆時の狀況、すなわち作者芥川龍之介が大正十年三月十九日午後五時半に、中國視察旅行のために門司へと出立したことなどから、「中國旅行直前の間に合わせの作品」(吉田精一『芥川龍之介』新潮社、昭和三十三年一月)として認識されてきた。
しかし、芥川の未発表直筆資料「絹帽子」の末尾に追記された「編者しるす」によると、芥川は旅行直前まで「「雛」草稿」を執筆していたが、結局完成せず、出発當日に「絹帽子」を「中央公論」に送ることとなる。この「編者しるす」を「絹帽子」の掲載経緯として捉えるならば、「奇遇」において、「小説家」と「編集者」の會話によって語られた「奇遇」の掲載経緯と、言及されている作品は異なれど、重なる部分が多い。
芥川は三月十九日午後五時半の下関行急行列車に乗ったが、発熱により大阪で途中下車し、一週間も逗留した。仮にこの一週間の中で「奇遇」が書かれたとすれば、「奇遇」は「間に合わせの作品」とはなり得ない。つまり、すでに「間に合わせ」の「絹帽子」を「中央公論」に提出し、執筆依頼を遂行した上で、わざわざ「絹帽子」を取り下げて「奇遇」を発表したことになる。「奇遇」は意欲的に書いた作品であると同時に、その中の「小説家」と「編集者」の會話は、「絹帽子」を出すまでの実際を踏まえつつも、巧妙に作られたフィクションである。
これは自ら作品を貶すことになりかねないが、芥川はそれを承知の上で、あえてそのように「奇遇」を作りあげた。発表百周年に當たり、芥川の狙いを明らかにした上で、「奇遇」の再評価を試みたい。