ブロニスワフ・ピオトル・ピウスツキ
難しい名前で、入力するときは大変でした。
ゆえに、コピーぺーという手間をかけないやり方で、書かせていただきます。
まあ、なんていうかな。
とても不思議なお方でした。
ブロニスワフ・ピオトル・ピウスツキ
なぜ家族のそばにいてあげなくて、祖國の獨立など大儀のために、サハリンを離れて、革命などに身を投じたんだろう。
せっかく戦爭を無事に生き抜いて、家族と一緒にいられたのに。
かわいい息子と生まれてくる赤ちゃん、愛する奧様とともに、
これからの人生を共に歩んでいけるのに。
この點で、どうしても納得いかない。
川越宗一さんの著書「熱源」の登場主人公。実在するお方。
ポーランド共和國の初の大統領であるユゼフ・クレメンス・ピウスツキの兄。
大學時代、皇帝暗殺の連座罪で、サハリン島へ流刑の上、懲役15年。
青春というものは急に色あせてしまい、雪と凍原と薄暗い雲のもとの生活に化していた。
若いブロニスワフを待っていたのは重労働と無限な絶望だった。
森で手頃な木を見つけ、斧で切り倒し、縄をかけ、木材置き場まで馬になったつもりで、引っ張る。日曜日の免業日は日沒まで自由に歩けるが、外は森と溼原と空の三つ。
體が先に死んでしまうか、魂が先に殺されるか、そのどっちかの未來しかなかった。
幸い、彼は狩り人に出會った。雪の大地で犬橇に乗って、トナカイを殺し、その場で解體して、獲物を持ち帰った原住民のギリヤークに出會った。ブロニスワフはそのあと、深くかかわり、お互いは兄弟のような絆ができ、この流刑地であるサハリンを自分の故郷と思えるほどの出會いだった。
ドラマ「MIU404」の中に、このセリフがあった。
「誰と出會うか、出會わないか。この人の行く先を変えるスイッチは何か。
その時が來るまで、誰にもわからない」
ブロニスワフにとって、これが大切なスイッチだった。彼の人生をリセットできるスイッチ。
次の免業日にブロニスワフはギリヤークの集落に行った。
「あなたたちを形作ったもの、あなたたちにこの凍てつく島でいきる熱を與えるものが何か知りたくて、ここへ來た」。彼はそういった。彼はその「熱」を貰った。その「熱」の正體を知りたかった。
その狩り人、チュウルカはブロニスワフを信用した。
二人、いや、ブロニスワフと原住民の間、強い絆ができていた。
ブロニスワフは村人にロシアのサポートをしたり、書類の代筆をしたりしながら、ギリヤークの言葉や風習、暮らしなどを勉強していた。なかなか手に入れないノートや鉛筆で記録し、ギリヤークの研究をしていた。興味の赴くままに調べているだけだが、この研究、すなわち、民族學の研究は最終的に彼をこの島から出させたことができた。その時、彼はまだ知らなかった。
當時、ロシアの原住民の研究が少なく、行政府が異族人の実態調査を始めたころであった。
なお、19世紀末期では西洋列強の植民地支配に大義名分が必要だった。即ち、他人種より優等なヨーロッパー人が他人種を支配する大義名分が必要とされた。
ロシア帝國の東方辺境を研究する「帝立ロシア地理學協會」の存在をシュテルベルクが教えて、ブロニスワフは自分の研究成果や論文を地理學協會に送り続けた。サハリン博物館の開館にあたり、民族學分野の収蔵品のほとんどを集めた。
彼の存在は地理學協會に認められ、招聘狀をもらって、島を出れた。
その後、彼もまた民族學學者として、島に戻り、アイヌやギリヤークなどの研究をつづけ、識字教室を開き、異族人の教育を熱心にしていた。「文明の中で自立するには知恵や知識が必要だ。その最初の一歩が識字能力だ。學校は呑み込まれようとする異族人たちの光となる」とブロニスワフは信じていた。
ロシア人や當時の日本人にとって、アイヌやギリヤークのような異族人は軽蔑され、滅びる種族さと思われた。弱肉強食の世界で、文明にたどりついていない異族人が一生懸命生きている。極寒の地で、當地の風土や気候に適しながら、それなりの知恵で生存しているのに、その生きざまはロシアやヨーロッパ人には怠惰で愚鈍に映る。ある意味ではブロニスワフはこの馬鹿げた観念とずっと戦ってきた人生を過ごしたともいえる。「弱肉強食という摂理と戦う。適者生存なのだ」をずっと主張してきた人生でもある。
日本で大隈伯爵との面會の時も、胸をはって、堂々と主張を述べた。
自分に生きる熱をくれた人々、支えられた人々、伝統と文明の狹間で懸命に環境に適応し、生きている人々、民族、滅びるもんか。強く生きていくのだ。
ブロニスワフは識字教室を開いたり、アイヌたちの暮らしや祭りごとを撮影したり、録音したりして、研究を続けていた。アイヌの娘とも結婚し、幸せな生活が待っていたはずなのに。
學校も開こうとした。ただ、日露戦爭で中斷になった。幸い、戦火がこのサハリンの南部に及んでいなく、平和の日を過ごせたが。お金を稼ごうとして、ウラジオストクの地理學協會の仕事を引き受け、現地に到著したブロニスワフは村に戦火が故郷に及んだことを知った。
不幸だった。戦爭の中、家族のそばにいてあげられなかった。
もっと不幸なのは
ウラジオストク滯在中、ロシアの騒動や暴動を體験した彼は
弟ユゼフの同志であるコバルスキに説得されて、弟であるユゼフに會う、革命に身を投じることを決斷したこと。
これはまさか、彼にとって、二つ目のスイッチ。人生の分岐點に立たされた時、彼が選んだスイッチ。
再び、無事に島に戻れた。愛する妻と小さい息子に會えた。妻の膨らんだお腹を見て、彼は妻を再び抱きしめた。
ただ、革命のため、祖國のため、彼はこの平凡な幸せを切り捨てた。
二度と平穏な生活を送ることなく、家族に會うこともなかった。
ブロニスワフは日本に行き、祖國の獨立のために、奔走した。
アメリカを経由し、ポーランドに帰った。弟のユゼフに再會した。
弟が武力で祖國の獨立を実現したいのに対し、ブロニスワフは平和的な道を信じていた。
弟と袂を分かって彼は不遇の日々を過ごし、食えない貧乏學者の身でヨーロッパー各國を転々とした。最後、よりによって、ユゼフの敵であるドモフスキが設立した國民委員會に參加した。ユゼフ派とドモフスキの合同を橋渡しするチャンスで、國の獨立を期待していたから。これはブロニスワフの死を招いた。弟のユゼフを裡切ったと思われ、同志のコバルスキに殺された。
死ぬ前に、彼の目に映ったのは
「赤い屋根がひしめくビィルノに、雪が降り始めた。象牙色の壁が作る入り込んだ道、灰色の石畳の上で、妻が雪を見上げている。そのアザラシの衣の裾をビーズの額飾りヲ著けた二人の幼児が摑んでいる。手を振り、聲をかけ、歩み寄る。振り向いた妻の口元には鮮やかな入れ墨がある」
ここで、小説のブロニスワフの物語が終わりました。
感慨深いのは 彼に原住民から生きていく熱をもらい、強く生きていたこと;
原住民のことを一度も軽蔑せず、彼らの生きざまと知恵を尊重し、助けたこと;
原住民の研究に取り込んで、貴重な音聲と畫像、記録していたこと。
書きたくもないけど、革命、祖國のために、胸が引き裂かれた思いで、家族とわかれたこと。一人で孤獨にもがいて生きて、死んでいったこと。
小説のゆえに、深く感じれたかもしれない。
WIKIPEDIAの記載によると、ブロニスワフは暗殺ではなく、パリのセーヌ河に身を投じて、自殺というに記載されている。その死の半年後、弟ユゼフの下で、祖國が獨立した。もうちょっとこらえたら、念願の獨立が自分の目で見れたのにという無念、言葉で表現できないほど、胸に詰まっていた。
ただ、ブロニスワフは熱中になった民族研究を精一杯やって、革命にも身を捨てる覚悟でやってきた。素晴らしい人生だと思う。
最後の最後、ブロニスワフが撮影した寫真、載せてみたい。
①アイヌの子供たち
②あい村の村長 バフンケ。妻の叔父様
③アイヌ家族
④ブロニスワフとアイヌの子供たち