27歲學成之後返回薩摩藩,成為了島津家的御用繪師,活躍於日本畫壇,聲震九州。
鹿児島市松原町3-35
島津氏中興の祖忠良は島津貴久が伊集院一宇治城から鹿児島內城に移ると天文19年(1550年)に加世田に本格的に隠居した。しかし実権は握り続けて、琉球を通じた対明貿易や、鉄砲の大量購入、家臣団の育成に勵んだ。また萬之瀬川に橋を掛け、麓と呼ばれる城下町を整備、養蠶などの産業を興し多くの仁政を敷いた。忠良はその後の島津氏発展の基礎を作り出し「島津家中興の祖」と言われ大きな影響力を與える事になった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E8%89%AF#%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F%E4%B8%AD%E8%88%88%E3%81%AE%E7%A5%96島津忠良公(尚古集成館蔵)
貴久公は戦國時代にあって三州平定の道を開き、のちの人材輩出・殖産興業の基礎を築いた稀代の英主です。「島津いろは歌」で知られる父君忠良公や自らの四人の息子(=義久・義弘・歳久・家久のいわゆる「島津四兄弟」)と共に父子三代40年の長きにわたり領內平定に奔走する一方、人材育成や貿易・産業を促進したほか、領民の暮らしの安定にも心を砕くなど善政を敷き、島津氏の戦國大名としての地位を盤石なものとしました。こうしたご事跡から文化鎮護の神、生活の守護神、厄除けの神として崇敬をあつめています。また當社を中心にしてひろがる繁華街「天文館」の守護神、商売繁昌の神としても広く信仰されています。
https://matsubarajinja.com/參道の中ほどに、薩摩の御用絵師木村探元の遺徳を顕彰する碑がある。探元は城下で小濱常慶や坂本養伯に學んだ後、江戸で狩野探信に師事した。 鶴丸城の大火に伴う本丸再建の際には、齢三十歳を待たずして襖絵や天井畫を任されるなど若くから畫才を発揮した。探元は狩野派の伝統的な筆意に、雪舟に代表される水墨畫の灑脫さを取り入れ獨自の畫風を確立した。禁裡にも召し上げられるほどその名は音に聞こえ、彼の絵を評して「みごったんげん(見事探元)」という言葉が生まれたほどであった。碑文の撰・書は鹿児島出身の日本畫家小松甲川。その他市內ゆかりの地としては、平田橋のたもとに建てられている生誕地を示す碑が挙げられる。
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