梶井基次郎(1901-1932),生於大阪,自幼身染肺結核,是少數生前無名、死後卻得到價值肯定的日本作家。戰後曾與中島敦、太宰治被並稱「三神器」。1925年,他和友人共同創辦《青空》雜誌,發表了代表作《檸檬》等作品,1932年3月24日病歿,只留下二十篇作品。
梶井基次郎擅長以象徵的手法及病態的幻想構織出病者憂鬱的世界及理想,三島由紀夫等作家都曾表明受其影響。為了紀念他,3月24日被命名「檸檬忌」。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧おさえつけていた。焦躁しょうそうと言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔ふつかよいがあるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相當した時期がやって來る。それが來たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖はいせんカタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪いたたまらずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
一種無以名狀的不祥之兆,始終壓著我的心頭。不知該形容其為焦躁,或是嫌惡……就跟喝酒後會伴隨著宿醉這個道理一樣,每天喝酒的話,宿醉那個東西遲早會來拜訪。而,現在,正是那個東西來訪的時候。這真是有點難耐。不是因為我得了肺結核和神經衰弱而難耐。也不是因為我欠了一堆債如芒刺在背般的難耐。難耐的是那個不祥之兆。往昔曾令我陶醉的悠揚音樂,或任何高雅的詩篇,我都已無法忍受。有時專程出門去聽留聲機,卻往往在剛聽了二、三小節後,就情不自禁想起身告辭離去。總之,就是有某種感覺讓我如坐針氈。因此,我才終日在街上東遊西逛。
何故なぜだかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が幹してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗のぞいていたりする裡通りが好きであった。雨や風が蝕むしばんでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀どべいが崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵ひまわりがあったりカンナが咲いていたりする。
不知為何,當時我常常被外表寒酸但美麗的東西所吸引。若是風景,我會選擇凋零蕭條的街道,即便是街道,與其是冷淡的繁華大道,不如那上空掛滿骯髒的曬洗衣服、隨地都是不值一文的破爛、不經意一瞟即能望見髒亂房間的后街窄巷,比較有親切感。例如,長年被風雨腐蝕,眼看即將歸於塵土的那種街道,不但隨處可見崩裂的土牆,更可見傾斜的屋舍……只有植物們氣勢蓬勃,有時還能碰到令人瞠目結舌的向日葵或美人蕉。
時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百裡も離れた仙臺とか長崎とか――そのような市へ今自分が來ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安靜。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団ふとん。匂においのいい蚊帳かやと糊のりのよくきいた浴衣ゆかた。そこで一月ほど何も思わず橫になりたい。希ねがわくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重寫しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
每當我漫步在這種街道時,有時會儘量讓自己陶醉在一種錯覺之中……這裡不是京都,是離京都有幾百裡的仙臺或長崎,我現在是身在異鄉。真的,如果可能的話,我真想逃離京都,到一個誰也不認識我的城鎮。目的只是圖個清靜。空曠的旅館某一隅。乾淨的座墊。香味撲鼻的蚊帳與漿得筆挺的浴衣。我真想在這種地方無所事事地躺個一個月左右。所以我會儘量讓自己產生我其實不在京都,是在另一個城鎮的錯覺。……當我的錯覺逐漸成真時,我會再於其上盡情揮灑想像的畫筆。其實說穿了也沒什麼大不了的事,只不過是我的錯覺與凋零的街道重疊在一起而已。而我,總是在這種狀況中,享受著現實中的我迷失於彼方的那種樂趣。
私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黃や青や、さまざまの縞模様しまもようを持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火ねずみはなびというのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を唆そそった。
我還喜歡那個叫煙火的東西。其實不是喜歡煙火本身,而是喜歡那用廉價的畫具畫出紅、紫、黃、青,或各種斑馬線條的煙火束。中山寺星、花交戰、枯芒草(譯註:均是煙火名稱)。還有一種叫鼠炮的煙火,我都將那些煙火捆成一團團,收藏在盒子裡。不知為何,這種不值錢的東西,很令我心動。
それからまた、びいどろという色硝子ガラスで鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉なんきんだまが好きになった。またそれを嘗なめてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほど幽かすかな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち魄ぶれた私に蘇よみがえってくる故せいだろうか、まったくあの味には幽かすかな爽さわやかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って來る。
我還喜歡那種在表面錘出鯛魚或花樣凸紋的玻璃彈珠,也喜歡那種有孔玻璃珠(譯註:可用線穿起做成項練或戒指)。尤其是用舌頭舔著那些玻璃珠時,對我而言是一種無比的享樂。世上有任何東西的味道,比得過玻璃珠那幽邃涼味嗎?我記得小時候常偷偷含在嘴裡而遭父母責罵,可能是這種兒時的甘美回憶,在我長大後且又窮途潦倒的今日重新浮現之因吧,每當我憶起那個味道,總覺得口裡似乎又漂蕩著那幽幽的、清爽的、詩情畫意的味覺。
察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは言えそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには贅沢ぜいたくということが必要であった。二銭や三銭のもの――と言って贅沢なもの。美しいもの――と言って無気力な私の觸角にむしろ媚こびて來るもの。――そう言ったものが自然私を慰めるのだ。
你們應該都知道我身無分文。不過,為了安撫看到金錢而心猿意馬時的我,我需要一點奢侈。兩分錢或三分錢的東西……但一定是要奢侈的東西。美麗的東西……但那東西得能挑動我那死氣沉沉的觸角。……這種東西能在無形中安撫我的魂魄。
生活がまだ蝕むしばまれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黃のオードコロンやオードキニン。灑落しゃれた切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色ひすいいろの香水壜こうすいびん。煙管きせる、小刀、石鹸せっけん、菸草たばこ。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。書籍、學生、勘定臺、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。
在生活尚未被腐蝕之前,我喜歡的地方,例如是丸善(譯註:位於京都四條河原町販賣書籍、文具、雜貨的老字號商社名,京都分店現在仍居於原處)。豔紅鵝黃的古龍水與生髮水。獨具風味的雕花玻璃器皿、有著洛可可式雅致浮雕花紋的琥珀色或翡翠色香水瓶。煙管、小刀、香皂、香菸。我曾花了一個小時,就只光看這些小玩意。結果我所謂的奢侈行為,也只不過是買了一枝上等鉛筆而已。然而,此處對當時的我而言,已變成一個沉重鬱悶的場所。書籍、學生、收銀臺,在我眼中都像是一群索債鬼。
ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が學校へ出てしまったあとの空虛な空気のなかにぽつねんと一人取り殘された。私はまたそこから彷徨さまよい出なければならなかった。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に言ったような裡通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ち留どまったり、乾物屋の乾蝦ほしえびや棒鱈ぼうだらや湯葉ゆばを眺めたり、とうとう私は二條の方へ寺町を下さがり、そこの果物屋で足を留とめた。ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な臺の上に並べてあって、その臺というのも古びた黒い漆塗うるしぬりの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調アッレグロの流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝こり固まったというふうに果物は並んでいる。青物もやはり奧へゆけばゆくほど堆うず高く積まれている。――実際あそこの人參葉にんじんばの美しさなどは素晴すばらしかった。それから水に漬つけてある豆だとか慈姑くわいだとか。
某日清晨……當時我過著寄人籬下的日子,從甲友家搬到乙友家,輾轉地更換住宿地方……友人出門上課後,剩我孤單一個留在空虛的大氣中。於是,我不得不再度徘徊於大街小巷。好像有某種東西在驅趕我似的。所以我一條一條街地逛,逛過剛剛描述的那種后街窄巷,或佇足於糖果店前,或在醃魚店前眺望著店頭的乾蝦、乾鱈魚或豆腐皮。最後我朝寺町南方漫步至二條,佇足在一家鮮果店前。在此想介紹一下這家鮮果店,因為此處是我所知範圍內,最讓我喜歡的店。店頭雖不華麗,卻是一家最能讓人感受到鮮果店固有美感的店。水果被排列在傾斜度相當陡的臺架上,記憶中臺架好像是塗著黑漆的陳舊木板。色彩豐富且鮮豔欲滴的水果被排列得……好像一首悠美悅耳輕快的音樂,突然被希臘神話三蛇發女怪之一點成化石般,凝固在臺架上。越往裡走,越可見被堆積如山的青翠蔬菜。實際上那兒的紅蘿蔔真的美侖美奐,水漬的大豆與慈姑也是無話可說。
またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通はいったいに賑にぎやかな通りで――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二條通に接している街角になっているので、暗いのは當然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず暗かったのが瞭然はっきりしない。しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。もう一つはその家の打ち出した廂ひさしなのだが、その廂が眼深まぶかに冠った帽子の廂のように――これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」と思わせるほどなので、廂の上はこれも真暗なのだ。そう周囲が真暗なため、店頭に點つけられた幾つもの電燈が驟雨しゅううのように浴びせかける絢爛けんらんは、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒らせんぼうをきりきり眼の中へ刺し込んでくる往來に立って、また近所にある鎰屋かぎやの二階の硝子ガラス窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀まれだった。
那家店最美的時刻是夜晚。寺町大道通常燈火通天……不過感覺上比東京或大阪更晶瑩清澈……一到夜晚,所有商店櫥窗內的燈光都大量流瀉至街上。可是不知為何,唯獨那家鮮果店的店頭四周,竟昏昏暗暗。鮮果店位於街口,一方緊鄰人煙較稀的二條大道,看起來昏暗是理所當然的,但鮮果店鄰家是面向寺町大道的,卻同樣一片昏暗,這點很令人費解。 不過,若非如此昏暗,我想我也不會因而心動。另一個讓我媚惑的是這家店的房簷,那房簷看上去就像是一頂被深深戴在頭上的帽簷一樣……總之,會讓人感到:「咦?那家店怎麼把帽簷戴得那麼低?」。而且房簷上又是悽黑一片。正因為四周黑壓壓的,店前裝飾的幾個燈泡,就更像驟雨般集中照射在水果上,讓店內的水果不受周圍影向,恣意地展現出其耀眼絢爛的美。當我佇立在裸露的電燈像細長螺旋棒滴溜溜地刺射人們雙眼的街道上,觀望著這家鮮果店,或從附近鎰屋(譯註:位於京都寺町二條一家老字號蛋糕店,二樓是咖啡廳)二樓的玻璃窗向外眺望這家鮮果店時,那種能令我沾沾自喜的景致,我想,即便找遍全寺町,恐怕也無可尋求。
その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬れもんが出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈たけの詰まった紡錘形の恰好かっこうも。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛ゆるんで來たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗しつこかった憂鬱が、そんなものの一顆いっかで紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
那天,我一反常態在這家店裡買了個東西。是這家店平常罕見的檸檬。檸檬當然到處都有,只是在這家雖不破舊卻極為平凡的鮮果店,很少看到。我很喜歡那個檸檬。喜歡那宛如從檸檬黃的水彩中擠出又將其凝固的單純色彩,喜歡那矮矮胖胖似紡錘的形狀……因此我才決定買一個。然後我到底又走了些什麼街道?反正我在街上逛了很長一段時間。在我握著檸檬的時候,我感到那一直積壓在我心中的不祥之兆,竟鬆弛下來。走在街上,我覺得非常幸福。那樣執拗的憂鬱,竟然會被這麼一個小東西所化解……或許,可疑的事物,以似是而非的論點來看,往往竟是真實。話說回來,人的心靈,真是一種不可思議的東西。
その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖はいせんを悪くしていていつも身體に熱が出た。事実友達の誰彼だれかれに私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故せいだったのだろう、握っている掌から身內に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。
那檸檬的冰冷感觸,更是舒適得無可比擬。當時我肺病惡化,時常發燒。更時常為了誇示自己發燒的事而故意和友人握手,結果我的手心最熱。可能是手心發熱的緣故,當我握住那個檸檬時,頓時感到一股涼意滲透入我的軀體,那是一種快感。
私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅かいでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って來る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲うつ」という言葉が斷きれぎれに浮かんで來る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身體や顔には溫い血のほとぼりが昇って來てなんだか身內に元気が目覚めて來たのだった。……
我好幾次將那檸檬拿到鼻尖嗅著它的芳香。那股芳香,可讓我在腦海中想像著它的產地加州。漢文課時學過一篇文章"賣柑者之言"(譯註:明,劉基),文中有"撲鼻"一詞,檸檬的芳香,也讓我斷斷續續憶起這個詞。然後當我深深吸進滿胸膛的芳香空氣時,會感到彷佛有一股溫暖的熱血朝上奔騰至我罕得做深呼吸的軀體與臉部,讓我體內的元氣復甦。
実際あんな単純な冷覚や觸覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。
事實上,那單純的冷感、觸覺、嗅覺與視覺,宛如我尋求已久終而獲得的寶物般,貼心得令我感到不可思議……這是當時的感覺。
私はもう往來を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的裝束をして街を歩かっぽした詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映を量はかったり、またこんなことを思ったり、
我興奮得在街上踏著輕快步伐,甚至滿懷驕傲,腦中想像著我是個一身美麗裝束昂首闊步在街頭的詩人。我將檸檬放在沾汙的手巾上、大衣上,鑑賞著檸檬的顏色變化。也恍然大悟:
――つまりはこの重さなんだな。――
……原來正是這重量……
その重さこそ常つねづね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して來た重さであるとか、思いあがった諧謔心かいぎゃくしんからそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。
原來我尋求已久的東西正是這個重量,不容置疑地,這正是所有真善美的東西換算而成的重量。我狂妄並詼諧地做出這種結論……總之,不管怎樣,我很幸福。
どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日は一ひとつ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。
我忘了當時到底走過什麼地方,只記得最後佇立在丸善門口。平時避之唯恐不及的丸善,那時我突然感到可以輕鬆地跨入。「今天我就進去瞧瞧。」於是我傍若無人地進了門。
しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水の壜にも煙管きせるにも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て罩こめて來る、私は歩き廻った疲労が出て來たのだと思った。私は畫本の棚の前へ行ってみた。畫集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて來ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して來る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は堪たまらなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色だいだいろの重い本までなおいっそうの堪たえがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が殘っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。
可是,不知怎地,原本充滿胸懷的幸福感竟逐一遁逃。香水瓶、煙管都已不再能令我心動。憂鬱又再度籠罩過來。起初我以為是走得太累的緣故,所以信步到畫冊架前。當我抽出第一本沉重的畫冊時,竟感到比平常還費力。不過我還是從書架一本本地抽出來翻閱。此時,我雖然毫無仔細翻閱的心情,卻像中了邪似地又抽出另一本。情況還是一樣。明知結果會這樣,依然忍不住要隨手翻翻看。實在看不下時,就隨處擱放,連把畫冊放回原處的精神都喪失了。我反覆著同樣的動作。最後抽出平日最鍾愛的安格魯之橙紅色封皮大畫冊,反而更感難耐,只好頹然地又隨手亂擱。……這到底是怎麼回事。枉然雙手疲累。我憂戚地瞪著被我抽出擱成小山般的畫冊。
以前にはあんなに私をひきつけた畫本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を曬さらし終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……
過去這些曾讓我渾然忘我的畫冊,如今到底是怎麼了?我凝望著一本本畫冊的封面,再環顧豪無變化的四周,感到自己與四周隔隔不入。這種感覺,也曾是我的最愛。
「あ、そうだそうだ」その時私は袂たもとの中の檸檬れもんを憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」
「喔,對了。」我想起袖兜裡的檸檬。如果我將眼前這些畫冊的色彩,雜亂無章地堆積起來,再用這個檸檬試試的話呢?「對了,試試吧。」
私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って來た。私は手當たり次第に積みあげ、また慌あわただしく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
我胸中再度升起剛才那股輕快的興奮。我隨手堆積著那些畫冊,再隨手搗垮,然後再忙碌地堆積著。不是從書架中抽出新的畫冊加入,就是在堆積的畫冊中拿掉不必要的。因此,我構築的這座奇異幻想城堡,也隨之忽紅忽綠變幻無窮。
やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬れもんを據えつけた。そしてそれは上出來だった。
城堡終於完成了。我一面克制雀躍的心情,一面小心翼翼地將檸檬擱在城堡頂端。這真是個無懈可擊的作品。
見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身體の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃ほこりっぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
我再度眺望著作品。檸檬的色彩,將紛亂不堪的各種顏色悄悄地吸收至鍅綞形的體內,更顯得鮮豔欲滴。我感到,丸善中滿是灰塵的空氣,唯獨檸檬四周凝聚著一股緊張氣息。我佇立在原地觀看了一會兒。
不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
出其不意地,我腦中又閃起一個念頭。這個奇妙的企圖,也令我自己本身心裡撲通一跳。
――それをそのままにしておいて私は、なに喰くわぬ顔をして外へ出る。――
……就將這個作品留在原地,然後若無其事地離開……
私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
想到此,我突然心癢得慌。「要走嗎?好吧,走。」我豪不猶豫地走出丸善。
変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ほほえませた。丸善の棚へ黃金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて來た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
走在街上的我,心癢得情不自禁微笑起來。如果我是一個在丸善書架上埋伏了一顆燦燦然金黃色炸彈的惡漢,而十分鐘後,丸善即會以美術架為中心發生一場大爆炸的話,不知多麼有趣。
私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉こっぱみじんだろう」
我熱衷追求著這個想像的答案。「若果真如此,那令人喘不過氣來的丸善一定會粉身碎骨吧。」
そして私は活動寫真の看板畫が奇體な趣きで街を彩いろどっている京極を下って行った。
然後,我往南走向滿街都是電影看板,將街道裝飾得奇形怪狀的京極。
點擊文末「閱讀原文」跳轉到Bilibili在線觀看
「BUNGO 日本文學シネマ EP03 檸檬」
▼
日文原著:梶井基次郎
日文朗讀:小宮真央
日文來源:青空文庫
譯文來源:網絡
朗讀來源:YouTube
編輯排版:heki
覺得不錯請點讚分享