今天在NHK網站偶然聽到這篇魯迅《藤野先生》的朗讀,覺得讀的很棒。於是費了很大功夫把音頻抓了下來。但是卻沒料到竟然搜遍全網都搜索不到這個版本的日文譯文(因此下邊的朗讀音頻和日文譯文是對應不上的)。才知道,原來魯迅的作品在日本存在著n多的譯本。比如這篇《藤野先生》的開場白「東京也無非是這樣」這一句,就有如此多種版本不同的譯法:
(01) 東京もどうせこんなものだった。
藤井省三 2009
(02) 東京もかわりばえしなかった。
渡辺襄 2007
(03) 東京もまあこんなふうであった。
小田嶽夫 1990
(04) 東京も同じことだった。
立間祥介 1985
(05) 東京も特別変わりはありませんでした。
西本鶏介 1985
(06) 東京も同じようでしかなかった。
駒田信二 1979, 1998
(07) 東京もたいして変わりばえはしなかった。
松枝茂夫+和田武司 1975, 1976
(08) 東京も似たようなものだった。
丸山昇 1975
(09) 東京も格別のことはなかった。
高橋和己 1967, 1995
(10) 東京も別に変わりはなかった。
増田渉 1961, 1975
(11) 東京も格別のことはなかった。
竹內好 1956, 1974, etc.
(12) 東京もたいして変わりばえはしなかった。
松枝茂夫 1947, 1955, etc.
(13) 東京もそんなふうでしかなかつた。
鹿地亙+松枝茂夫+井上紅梅+增田渉+佐藤春夫 1936
(14) 東京も相變らずであつた。
佐藤春夫+増田渉 1935
藤野先生東京も格別のことはなかった。上野の桜が満開のころは、眺めはいかにも紅の薄雲のようではあったが、花の下にはきまって隊伍を組んだ「清國留學生」の速成組がいた。頭のてっぺんに辮髪をぐるぐる巻きにし、そのため學生帽が高くそびえて富士山の形になっている。なかには辮髪をほどいて平たく巻きつけたのもあり、帽子をぬぐと油がぴかぴかで若い女の髪型そっくり、それで首のひとつもひねれば色気は満點だ。
東京也無非是這樣。上野的櫻花爛熳的時節,望去確也像緋紅的輕雲,但花下也缺不了成群結隊的「清國留學生」的速成班,頭頂上盤著大辮子,頂得學生制帽的頂上高高聳起,形成一座富士山。也有解散辮子,盤得平的,除下帽來,油光可鑑,宛如小姑娘的髮髻一般,還要將脖子扭幾扭。實在標緻極了。
中國留學生會館は玄関部屋で本を少しばかり売っていたので、たまにはたちよるのも悪くなかった。午前中なら奧の洋間で休むこともできる。だが夕方になると、きまってその一間の床板がドシンドシン地響きを立て、ほこりが部屋じゅう濛々となる。消息通にきいてみると「あれはダンスの稽古さ」という答えた。
中國留學生會館的門房裡有幾本書買,有時還值得去一轉;倘在上午,裡面的幾間洋房裡倒也還可以坐坐的。但到傍晚,有一間的地板便常不免要咚咚咚地響得震天,兼以滿房煙塵鬥亂;問問精通時事的人,答道,「那是在學跳舞。」
では、ほかの土地へ行ってみたら?
到別的地方去看看,如何呢?
そこで私は、仙臺の醫學専門學校へ行くことにした。東京を出て間もなく、ある駅に著くと「日暮裡」とあった。なぜか今でもその名をおぼえていてる。次におぼえているのは「水戸」だけ、これは明の遺民、朱舜水先生が客死された地だ。仙臺は市ではあるが大きくない。冬はひどく寒かった。中國人の學生はまだいなかった。
我就往仙臺的醫學專門學校去。從東京出發,不久便到一處驛站,寫道:日暮裡。不知怎地,我到現在還記得這名目。其次卻只記得水戶了,這是明的遺民朱舜水先生客死的地方。仙臺是一個市鎮,並不大;冬天冷得利害;還沒有中國的學生。
物は稀なるをもって貴しとなすのだろう。北京の白菜が浙江へ運ばれると、赤いひもで根元をゆわえて果物屋の店頭にさかさに吊るされ、もったいぶって「山東菜」とよばれる。福建に野生するアロエが北京へ行くと、溫室へ招じ入れられて「竜舌蘭」という美稱が與えられる。私も仙臺でこれとおなじ優待を受け、學校が授業科を免除してくれたばかりでなく、職員たちが食や住の面倒まで見てくれた。最初は監獄のそばに下宿した。冬に入ってかなり寒くなっても蚊がまだたくさんいるので、しまいに私はふとんを全身に引っかぶり、頭と顔は服でくるみ、ふたつの鼻の穴だけを息するために出しておいた。この絶えず息する場所だけは蚊も食いつきようがないので、やっとゆっくり眠れた。食事も悪くなかった。ところがある先生が、この下宿は囚人の賄いも請負っているから、こんなところにいるのはよくないと何度も何度も勧告した。下宿屋が囚人の賄いを兼業しようと私には無関係と思ったが、せっかくの好意を無にはできず、適當な下宿をほかに探すことにした。こうして監獄から離れた場所に移ったが、お陰で毎日喉を通らぬ芋ガラの汁ばかり飲まされた。
大概是物以希為貴罷。北京的白菜運往浙江,便用紅頭繩系住菜根,倒掛在水果店頭,尊為「膠菜」;福建野生著的蘆薈,一到北京就請進溫室,且美其名曰「龍舌蘭」。我到仙臺也頗受了這樣的優待,不但學校不收學費,幾個職員還為我的食宿操心。我先是住在監獄旁邊一個客店裡的,初冬已經頗冷,蚊子卻還多,後來用被蓋了全身,用衣服包了頭臉,只留兩個鼻孔出氣。在這呼吸不息的地方,蚊子竟無從插嘴,居然睡安穩了。飯食也不壞。但一位先生卻以為這客店也包辦囚人的飯食,我住在那裡不相宜,幾次三番,幾次三番地說。我雖然覺得客店兼辦囚人的飯食和我不相干,然而好意難卻,也只得別尋相宜的住處了。於是搬到別一家,離監獄也很遠,可惜每天總要喝難以下咽的芋梗湯。
以後、多くの先生にはじめて接し、多くの新鮮な講義を聞いた。解剖學は教授ふたりの分擔だった。最初は骨學である。はいって來たのは色の黒い、痩せた先生で、八字ひげをはやし、眼鏡をかけ、大小さまざまな書物を山のようにかかえていた。卓上に書物をおくなり、ゆっくりした、節をつけた口調で學生にこう自己紹介した――
從此就看見許多陌生的先生,聽到許多新鮮的講義。解剖學是兩個教授分任的。最初是骨學。其時進來的是一個黑瘦的先生,八字須,戴著眼鏡,挾著一疊大大小小的書。一將書放在講臺上,便用了緩慢而很有頓挫的聲調,向學生介紹自己道:
「私は藤野厳九郎というもので……」
「我就是叫作藤野嚴九郎的……」
うしろのほうで數人が笑い聲を立てた。自己紹介のあと、かれは日本における解剖學の発達史を説き出した。大小さまざまな書物は、この學問に関する最初から今日までの文獻だった。最初の數冊は糸とじであり、中國での訳本を翻刻したものもあった。新しい醫學の翻訳にしろ研究にしろ、彼らは決して中國より早くはない。
後面有幾個人笑起來了。他接著便講述解剖學在日本發達的歷史,那些大大小小的書,便是從最初到現今關於這一門學問的著作。起初有幾本是線裝的;還有翻刻中國譯本的,他們的翻譯和研究新的醫學,並不比中國早。
うしろのほうにいて笑った連中は、前學年に落第して原級に殘った學生で、在校すでに一年、いっぱしの消息通である。かれらは新入生に教授それぞれの來歴を説明してくれた。それによると、この藤野先生は服の著方が無頓著で、ネクタイすら忘れることがある。冬は古外套一枚で震えているので、あるとき汽車に乗ったら車掌がスリと勘ちがいして、乗客に用心を促したそうだ。
那坐在後面發笑的是上學年不及格的留級學生,在校已經一年,掌故頗為熟悉的了。他們便給新生講演每個教授的歷史。這藤野先生,據說是穿衣服太模胡了,有時竟會忘記帶領結;冬天是一件舊外套,寒顫顫的,有一回上火車去,致使管車的疑心他是扒手,叫車裡的客人大家小心些。
その話はたぶん噓ではあるまい。げんに私も、彼がネクタイをせずに教室にあらわれたのを一度見たから。
他們的話大概是真的,我就親見他有一次上講堂沒有帶領結。
一週間たって、たしか土曜日のこと、かれは助手に命じて私をよばせた。研究室へ行って見ると、かれは人骨と拡散の切りはなされた頭蓋骨――當時かれは頭蓋骨の研究中で、のちに本校の雑誌に論文がのった――に囲まれていた。
過了一星期,大約是星期六,他使助手來叫我了。到得研究室,見他坐在人骨和許多單獨的頭骨中間——他其時正在研究著頭骨,後來有一篇論文在本校的雜誌上發表出來。
「私の講義、ノートが取れますか?」とかれは訊ねた。
「我的講義,你能抄下來麼?」他問。
「どうにか」
「可以抄一點。」
「見せてごらん」
「拿來我看!」
私は筆記したノートをさし出した。かれは受け取って、一両日して返してくれた。そして、今後は毎週もってきて見せるようにと言った。持ち帰って開いてみて、私はびっくりした。同時にある種の困惑と感激に襲われた。私のノートは、はじめから終わりまで全部朱筆で添削してあり、たくさんの抜けたところを書き加えただけでなく、文法の誤りまでことごとく訂正してあった。このことが彼の擔任の骨學、血管學、神経學の授業全部にわたってつづけられた。
我交出所抄的講義去,他收下了,第二三天便還我,並且說,此後每一星期要送給他看一回。我拿下來打開看時,很吃了一驚,同時也感到一種不安和感激。原來我的講義已經從頭到末,都用紅筆添改過了,不但增加了許多脫漏的地方,連文法的錯誤,也都一一訂正。這樣一直繼續到教完了他所擔任的功課:骨學、血管學、神經學。
藤野先生が添削した魯迅のノート
遺憾ながら同時の私は一向に不勉強であり、時にはわがままでさえあった。今でもおぼえているが、あるとき藤野先生が私を研究室へ呼び寄せ、私のノートから一枚の図を取り出した。かはくの血管の図だ。それを指さして、彼はおだやかに言った――
可惜我那時太不用功,有時也很任性。還記得有一回藤野先生將我叫到他的研究室裡去,翻出我那講義上的一個圖來,是下臂的血管,指著,向我和藹的說道——
「ほら、きみはこの血管の位置を少し変えたね――むろん、こうすれば形がよくなるのは事実だ。だが解剖図は美術ではない。実物がどうあろうと、われわれは勝手に変えてはならんのだ。いまは私が直してあげたから、これからは黒板に書いてある通りに寫すんだね」
「你看,你將這條血管移了一點位置了——自然,這樣一移,的確比較的好看些,然而解剖圖不是美術,實物是那麼樣的,我們沒法改換它。現在我給你改好了,以後你要全照著黑板上那樣的畫。」
だが私は內心不服だった。口では承知したが心では思った――
但是我還不服氣,口頭答應著,心裡卻想道——
「図はやはりぼくの描き方のほうがうまいですよ。実際の形態ならむろん頭でおぼえてます」
「圖還是我畫的不錯。至於實在的情形,我心裡自然記得的。」
學年試験のあと私は東京へ行ってひと夏遊んだ。秋のはじめに學校にもどってみると、すでに成績が発表になっていた。百人あまりの同級生中、私は真ん中どころで落第はせずにすんだ。今度の藤野先生の擔當は解剖実習と局所解剖學だった。
學年試驗完畢之後,我便到東京玩了一夏天,秋初再回學校,成績早已發表了,同學一百餘人之中,我在中間,不過是沒有落第。這回藤野先生所擔任的功課,是解剖實習和局部解剖學。
解剖実習がはじまって一週間くらいすると、かれはまた私を呼んで、上機嫌で、いつもの節をつけた口調でこう言った――「実はね、中國人は霊魂を敬うと聞いていたので、きみがしたい解剖をいやがりはしないかとずいぶん心配したよ。まずは安心した、そんなことがなくてね」
解剖實習了大概一星期,他又叫我去了,很高興地,仍用了極有抑揚的聲調對我說道:「我因為聽說中國人是很敬重鬼的,所以很擔心,怕你不肯解剖屍體。現在總算放心了,沒有這回事。」
しかしかれは、たまに私を困らせることもあった。中國の女は纏足しているそうだが、くわしいことがわからない、と言って、どんなふうに纏足するのか、足の骨はどんなふうに畸形化するか、などと私に質問し、それから嘆息した。「やはり一度見ないとわからんね、どんなふうになるのか」
但他也偶有使我很為難的時候。他聽說中國的女人是裹腳的,但不知道詳細,所以要問我怎麼裹法,足骨變成怎樣的畸形,還嘆息道,「總要看一看才知道。究竟是怎麼一回事呢?」
ある日、學生會のクラス幹事が私の下宿へ來てノートを見せてくれと言った。出してやると、ぱらぱらめくっただけで、持ち帰りはしなかった。かれらが帰るとすぐ郵便配達が來て、分厚な手紙をとどけた。あけてみると、文面の最初の一句は――「汝、悔い改めよ」
有一天,本級的學生會幹事到我寓裡來了,要借我的講義看。我檢出來交給他們,卻只翻檢了一通,並沒有帶走。但他們一走,郵差就送到一封很厚的信,拆開看時,第一句是:「你改悔罷!」
たぶんこれは新約聖書の一句だが、最近トルストイによって引用されたものだ。時あたかも日露戦爭、ト翁はロシアと日本の皇帝にあてて公開狀を書き、冒頭にこの一句を使った。日本の新聞はその不遜をなじり、愛國青年はいきり立ったが、実際はそれと知らずに早くからかれの影響を受けていたのだ。あとにつづく文面は、前學年の解剖學の試験で、藤野先生がノートに印をつけてくれたので私には出題がわかり、だから點が取れたといった意味だった。末尾には署名がなかった。
這是《新約》上的句子罷,但經託爾斯泰新近引用過的。其時正值日俄戰爭,託老先生便寫了一封給俄國和日本的皇帝的信,開首便是這一句。日本報紙上很斥責他的不遜,愛國青年也憤然,然而暗地裡卻早受了他的影響了。其次的話,大略是說上年解剖學試驗的題目,是藤野先生講義上做了記號,我預先知道的,所以能有這樣的成績。末尾是匿名。
それではじめて數日前のことを思い出した。クラス會を開く通知を幹事が黒板に書いたとき、最後に「全員漏レナク出席サレタシ」とあって、その「漏」の字の橫にマルがつけてあった。そのときマルはおかしいなと感じはしたがきに留めなかった。それが私へのあてこすりであること、私が教員から出題を漏らされたという意味だとはじめて気がついた。
我這才回憶到前幾天的一件事。因為要開同級會,幹事便在黑板上寫廣告,末一句是「請全數到會勿漏為要」,而且在「漏」字旁邊加了一個圈。我當時雖然覺到圈得可笑,但是毫不介意,這回才悟出那字也在譏刺我了,猶言我得了教員漏洩出來的題目。
私はそのことを藤野先生に知らせた。私と仲のいい同級生數人も憤慨して、いっしょに幹事のところに行き、口実を設けて人のノートを検査した無禮をなじり、検査の結果を発表するように要求した。結局、その噂は立消えになったが、すると今度は、幹事が八方手をつくして例の匿名の手紙を回収しにかかった。最後に私からこのトルストイ式書簡を彼らにもどして幕になった。
我便將這事告知了藤野先生;有幾個和我熟識的同學也很不平,一同去詰責幹事託辭檢查的無禮,並且要求他們將檢查的結果,發表出來。終於這流言消滅了,幹事卻又竭力運動,要收回那一封匿名信去。結末是我便將這託爾斯泰式的信退還了他們。
中國は弱國であり、したがって中國人は當然に低能だから、自分の力で六十點以上取れるはずがない、こうかれたが疑ったとしても無理はない。だが私はつづいて、中國人の銃殺られるのを參観する運命にめぐりあった。第二學年では細菌學の授業があって、細菌の形態はすべて幻燈で映して見せるが、授業が一段落してもまだ放課にならぬと、ニュースを放映して見せた。むろん日本がロシアとの戦爭で勝った場面ばかりだ。ところがスクリーンに、ひょっこり中國人が登場した。ロシア軍のスパイとして日本軍に捕えられ、銃殺される場面である。それを取りまいて見物している群眾も中國人だった。もうひとり、教室には私がいる。
中國是弱國,所以中國人當然是低能兒,分數在六十分以上,便不是自己的能力了:也無怪他們疑惑。但我接著便有參觀槍斃中國人的命運了。第二年添教黴菌學,細菌的形狀是全用電影來顯示的,一段落已完而還沒有到下課的時候,便影幾片時事的片子,自然都是日本戰勝俄國的情形。但偏有中國人夾在裡邊:給俄國人做偵探,被日本軍捕獲,要槍斃了,圍著看的也是一群中國人;在講堂裡的還有一個我。
「萬歳!」萬雷の拍手と歓聲だ。
「萬歲!」他們都拍掌歡呼起來。
いつも歓聲はスライド一枚ごとにあがるが、私にとしては、このときの歓聲ほど耳にこたえたものはなかった。のちに中國に帰ってからも、囚人が銃殺されるのをのんびり見物している人人がきまって酔ったように喝採するのを見た――ああ、施す手無し!だがこの時この場所で私の考えは変った。
這種歡呼,是每看一片都有的,但在我,這一聲卻特別聽得刺耳。此後回到中國來,我看見那些閒看槍斃犯人的人們,他們也何嘗不酒醉似的喝彩,——嗚呼,無法可想!但在那時那地,我的意見卻變化了。
第二學年のおわりに私は藤野先生を訪ねて、醫學の勉強をやめたいこと、そして仙臺を離れるつもりだと告げた。かれは顔をくもらせ、何かいいだけだったが、何も言わなかった。
到第二學年的終結,我便去尋藤野先生,告訴他我將不學醫學,並且離開這仙臺。他的臉色仿佛有些悲哀,似乎想說話,但竟沒有說。
「ぼくは生物學を學ぶつもりです。先生に教わった學問はきっと役に立ちます」私は生物學をやるつもりなど毛頭なかったが、落膽ぶりを見かねて、慰めるつもりで噓をついた。
「我想去學生物學,先生教給我的學問,也還有用的。」其實我並沒有決意要學生物學,因為看得他有些悽然,便說了一個慰安他的謊話。
「醫學として教えた解剖學など生物學にはあまり役に立つまい」かれは嘆息した。
「為醫學而教的解剖學之類,怕於生物學也沒有什麼大幫助。」他嘆息說。
出発の數日前、かれは私を家に呼んで寫真を一枚くれた。裡に「惜別」と二字書いてあった。そして私の寫真もと乞われたが、あいにく手もちがなかった。あとで寫したら送ってくれ、それから折にふれ手紙で近況を知らせてくれ、とかれは何度の言った。
將走的前幾天,他叫我到他家裡去,交給我一張照相,後面寫著兩個字道:「惜別」,還說希望將我的也送他。但我這時適值沒有照相了;他便叮囑我將來照了寄給他,並且時時通信告訴他此後的狀況。
仙臺を離れたあと、私は何年も寫真をとらなかったし、不安定な狀態がつづいて、知らせても失望させるだけだと思うと手紙も書きにくかった。年月がたつにつれてますます書きにくくなり、たまに書きたいと思っても容易に筆がとれなかった。こうして現在まで、ついに一通の手紙、一枚の寫真も送らずにしまった。あちらからすれば梨のつぶてのわけだ。
我離開仙臺之後,就多年沒有照過相,又因為狀況也無聊,說起來無非使他失望,便連信也怕敢寫了。經過的年月一多,話更無從說起,所以雖然有時想寫信,卻又難以下筆,這樣的一直到現在,竟沒有寄過一封信和一張照片。從他那一面看起來,是一去之後,杳無消息了。
だがなぜか私は、今でもよくかれのことを思い出す。わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ、もっとも私を勵ましてくれたひとりだ。私はよく考える。かれが私に熱烈な期待をかけ、辛抱づよく教えてくれたこと、それは小さくいえば中國のためである。中國に新しい醫學の生まれることを期待したのだ。大きくいえば學術のためである。新しい醫學が中國に伝わることを期待したのだ。私の眼から見て、また私の心において、かれは偉大な人格である。その姓名を知る人がよし少ないにせよ。
但不知怎地,我總還時時記起他,在我所認為我師的之中,他是最使我感激,給我鼓勵的一個。有時我常常想:他的對於我的熱心的希望,不倦的教誨,小而言之,是為中國,就是希望中國有新的醫學;大而言之,是為學術,就是希望新的醫學傳到中國去。他的性格,在我的眼裡和心裡是偉大的,雖然他的姓名並不為許多人所知道。
かれが手が加えたノートを私は三冊の厚い本のとじ、永久に記念するつもりで大切にしまっておいた。不幸にも七年前、引越しの途中で本の箱がひとつこわれ、なかの書物が半分なくなり、あいにくこのノートも失われた。探すように運送屋を督促したが返事がなかった。だがかれの寫真だけは今でも北京のわが寓居の東の壁に、機のむかいに掛けてある。夜ごと仕事に倦んでなまけたくなるとき、顔をあげて燈のもとに色の黒い、痩せたかれの顔が、いまにも節をつけた口調で語りだしそうなのを見ると、たちまち良心がよびもどされ、勇気も加わる。そこで一服たばこを吸って、「正人君子」たちから忌み嫌われる文章を書きつぐことになる。
他所改正的講義,我曾經訂成三厚本,收藏著的,將作為永久的紀念。不幸七年前遷居的時候,中途毀壞了一口書箱,失去半箱書,恰巧這講義也遺失在內了。責成運送局去找尋,寂無回信。只有他的照相至今還掛在我北京寓居的東牆上,書桌對面。每當夜間疲倦,正想偷懶時,仰面在燈光中瞥見他黑瘦的面貌,似乎正要說出抑揚頓挫的話來,便使我忽又良心發現,而且增加勇氣了,於是點上一枝煙,再繼續寫些為「正人君子」之流所深惡痛疾的文字。
【日語愛好者】
公眾號:enjoyJP
原著:魯迅
日文朗読:NHK - 朗読
編校排版:heki
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