日本の宗教史
日本は、自然が豊ゆたかな國です。しかし、自然の力が強すぎて困ることも、よくあります。
人々は昔から、自然の不思議な力や、存在するのものすべてに、神が宿やどると考えていました。日本人は、神はそれぞれ平和的な面「和にき魂みたま」と、荒あら々しい面「荒魂あらみたま」という、二つの顔を持っていると考えました。いい神を悪い神が戦たたかっている、という世界観ではありません。
6世紀ごろ、仏教ぶっきょうが日本へ來たとき、日本人は仏教を學問として取り入れました。そして、「じゃ、これはなに?」と、自分たちの世界観を見直しました。そしてそれに「神道しんとう」と名前を付けました。それまで自然に感じるだけだった日本獨自の世界観を、外圧がいあつへのカウンターとして、整備せいびしはじめました。基本的に神道は、教えたり習ならったりしません。しかし仏教は、苦くるしいときにどうしたら苦しみが無くなるか、具體的に教えてくれます。仏教と一緒に、世界最新の技術ぎじゅつも來ましたから、日本人は一生懸命勉強して、たくさん取り入れました。為政者い せい しゃは、仏教を政治に利用しました。やがて貴族き ぞくも天皇も、みんな仏教を信じるようになりました。しかし、神道しんとうも捨てませんでした。
奈良時代、仏教の力が強くなりすぎました。そこで、天皇は仏教の僧侶そうりょたちを奈良に殘して、都みやこを京都へ移うつしました。
やがて人々は、神道と仏教の間に矛盾むじゅんを感じるようになりました。例えば、大日だいにち如來にょらいは太陽を意味する如來です。しかし、神道では天照あまてらすが太陽の神様です。昔の日本人は、まず「天照あまてらすは、大日如來が日本人に分かりやすいように姿すがたを変えたもの」と考えました。しばらくして、「仏ほとけは神の代弁者だ」という考え方も生まれました。最終的には、「神も仏ほとけも基本的には同じ。上下じょうげ関係はない」という考え方になりました。仏教は最初、たくさん勉強したり、寺や仏像ぶつぞうを作ったり、僧侶そうりょにたくさんお金をあげたりしなければ、幸せになれませんでした。
貴族きぞくの時代が終わって侍さむらいの時代になると、貧乏びんぼうな人や、忙しい人、人を殺ころさなければならない侍でも幸せになれる方法が考えられるようになりました。色々な考え方が出ましたから、仏教徒同士どうしで喧嘩したり、デモや暴動ぼうどうが起こるころも多くなりました。
このころ、キリスト教の宣教師せんきょうしが日本へ來ました。宣教師は日本人に言いました。「私たちの神を信じなさい。信じなかったら、地獄じごくへ行きますよ」日本人は言いました。「私の父も母も、お爺さんもお婆さんも、みんなあなたの神様を知らないまま死にました。皆は今天國てんごくにいますか、地獄じごくにいますか」
宣教師は答えました。「私たちの神を信じなかったのだから、地獄です。あなたが私たちの神を信じれば、あなただけ天國へ行けます」
それを聞いて、日本人は言いました。「全知全能ぜんちぜんのうなのに、知らなかったでけで地獄へ落とすんですか。あなたの神様は、優しくないですね」
「そもそも、最初から悪あくを作らなかったら良かったじゃないですか。全知全能なのに、悪を無なくすことができないのは、どうしてですか」
宣教師は、本國ほんごくに手紙を書きました。「この國の布教ふきょうは難しいです」
織田おだ信長のぶながは、寺をたくさん焼やき討うちして、強すぎた仏教勢力せいりょくを弱よわくしました。ヨーロッパ人は、長崎ながさきを勝手かってに自分のものにしたり、神社や寺を壊したり、日本人を奴隷どれいとして外國に売ったりしていました。豊臣とよとみ秀吉ひでよしは外國人宣教師せんきょうしを國外追放ついほうしました。
江戸時代になると、幕府はキリスト教を禁止して、鎖國さこくしました。國民全員がどこかの登録とうろくしなければならない法律を作って、寺に國民を管理・監視かんしさせました。葬式は全部仏教でしなければならないという法律も造りましたから、神道の神主かんぬしでも葬式は仏教で行わなければなりませんでした。
明治時代になると、政府は列強れっきょうに対抗たいこうするために、天皇を中心にした神道で、日本を強くしようと考えました。長い間融合ゆうごうしていた神道と仏教は別々にされて、仏教の寺や仏像がたくさん壊されました。
第二次世界大戦たいせんで日本が負けると、GHQは神道を過激かげき思想だとして、「國家こっか神道」を禁止しました。
仏教が來る前から天皇が代々行っていた祭祀さいしは、國家行事ぎょうじではなくなりました。しかし天皇は、個人こじん的な行為こういとして、今でも國と國民こくみんのために祈り続けています。
現在日本の宗教しゅうきょうの信者しんじゃは、神道、仏教、どちらも70%ぐらいです。つまり、多くの人が神道と仏教、両方りょうほうを信じているのです。しかし、「私は無宗教むしゅうきょうです」と言う日本人も多いです。神道も仏教も、生活に溶とけ込んでいるので、宗教的な行為だと気がつかないでしている人もたくさんいます。逆に「宗教に熱心ねっしんな人は反社會的で危険きけんな人物だ」と考える日本人も、たくさんいます。あまり親したしくない人とは、宗教の深い話はしないのがマナーだと考えたほうがいいでしょう。