タコを買ってきて楽しく調理しようと思っていたら、墨をきれいに割いてしまって寫真のようになってしまった。これでは、手で墨パスタを作っているような狀態だ。頭を裡返してそっと取り出さないといけないと頭ではわかっているものの、うまくできないとこのようになる。なんとも、殘念な様子になってしまった。
下手くそなのは間違いない。でも、楽しいといった感じが出てきた。「わぁ」と言いながらどんどん進めていく。こうした「楽しみ」が少なくなってきたのかな、と思った。毎日の生活でご飯を食べて、授業をして、パソコンで用事を済ませれば終わり。そんな生活を続けていると、気づけば夜遅くになっていることもある。同じ行動を続けることはできるけど、新しいことに挑戦するためには、何かを大きく減らしたり、隙間時間を見つけなければならない。そうなるとストレスがためる。
結局、楽を取ってしまうと、このままだ。
と思って行動しても、はずみで急にやらなくなってしまう。そんなときもあるよね、と自分で納得させるしかない。では、どうすればよいのか自分なりに考えた結果としては、
強制的な仕組みをつくる。
ということだった。特に頻度を高くしながら(毎日は厳しいのだが)、行動していくと最初は慣れないこともあり、ストレスが溜まっていく。だが、それを乗り越えると、不思議とハマっていく。これは新たな発見だった。興味のあまりなかったことでも、少しずつ、かつ強制的に書いていくと自分が「なくてはならない」ものになっていく。
これを続けていけるのならば、自分の力(と大げさに言ってみる)になるのではないだろうか。難しいことやりたいことはたくさんあるので、それを1つずつ試してみていきたい。今のところ、
1.ワイン
2.読書
3.言語
この3つの方面で楽しみながら勉強していきたいと思っている。もちろん、それ以外にも幅広く、觸っているものの、上記3つの深さもあるので、終わりなき旅に出ている。「中國語」と3のうちの1つを取っても、「最終章」みたいなことはなく、ひたすら先を見ながら、勉強をしていくことが必要である。ただ、1と組み合わせることで、
勃艮第→ブルゴーニュ
夏布利→シャブリ
波爾多→ボルドー
などの単語が分かるようになった(それが使えるのか、役に立つのかは別問題)。ワインのことを學びたいと思っていなければ、分からない、というか見えなかった世界だろう。
ここで強制的に話を戻すとすると、真っ黒の墨も一つの體験である。これを得てこそ、「墨があるから気をつけて」とこうして記事に書けるわけである(自分への慰め)。殘念なことは、その中でもタコの卵があったのだが、うまくさばけなかったことだ。ちなみに、タコの卵は米粒のような形でとてもかわいらしい。
タコをさばいてニラと一緒に炒めた料理はとても美味しかったのだが、おひるだったこともありお酒は飲めなかった。墨からは想像もできないほどの美味で、苦労した甲斐があった(自らが招いた)と思うのであった。
次回は、墨を出さないよう、學んだことを活かしたい。
(勝手に頑張ります!)