2020年の大河ドラマが長谷川博己演じる明智光秀に決まり、さらに加速することが予想される戦國ブーム。「徳川家康は2度死んだ」「斎藤道三は2人いた」などなど、武將たちには珍説・奇説があることはご存知?
2020年的大河劇已經確定以長谷川博己出演主角明智光秀,想必這也會加快戰國熱潮的發展。你知道「德川家康死過兩次」、「齋藤道三有兩個」等等武將傳說嗎?
明智光秀=「怪僧」天海説
明智光秀=「怪僧」天海說
徳川家康の後半生に彼のブレーンとして活躍したのが「黒衣の宰相」天海僧正。しかし、この人物、生い立ちがいま一つはっきりしない。天海は弟子達に出自を聞かれた時に次のように答えている。
在德川家康後半生中,「黑衣宰相」天海僧正作為其智囊團十分活躍。然而,這一人物的身世一直沒有明了。在詢問天海弟子關於其身世的問題時出現了這樣的答案。
「出身地も俗名も遠の昔に忘れてしまった」。
「籍貫俗名這種久遠的事情很早就忘記了」。
つまり彼は、生年でさえ隠さなければならないほどの「秘事」を抱えていたということなのだ。こうしたことから、「実は天海の正體は明智光秀」との説が、他ならぬ當時、幕府の內部で囁かれていたという。
也就是說,這個人有著連出生年份都要隱藏起來的「秘密」。這樣看來,傳出「天海其實就是明智光秀」這種說法的,不是別人,正是幕府內部。
天海=光秀を裡づける証拠は枚挙に暇がない。天海は天台宗の僧侶として、信長のジェノサイドで荒廃していた比叡山と光秀の領地であった近江の國坂本の復興に盡力した點。比叡山近くの堂に「奉寄進 願主光秀」の石碑がある點。神君・家康を祭った日光東照宮には明智家の家紋である桔梗紋を身に著けた人物が安置されている點。日光・華厳の滝周辺を一望できる絶景を「明智平」と呼ぶ點……がそれだ。
看一些天海就是光秀的證據。天海作為天台宗僧侶,盡心於因織田信長滅頂而荒廢的比叡山和光秀領地近江國坂本的復興。比叡山附近還立了「奉寄進 願主光秀」的石碑。供奉著神君·家康的日光東照宮中也放置著穿有明智家紋桔梗紋服飾的人物。日光·華嚴瀑布周圍的絕境被稱為「明智平」.等等等等。
しかし、最大にして決定的な証拠は、天海大僧正の諡號(戒名)が慈眼であることだ。同名の京都の慈眼寺には、光秀の戒名が記された像が安置されているのだ。これはやはり……!?
不過,最大的決定性證據就是,天海大僧的諡號(戒名)為慈眼。同名的京都慈眼寺中,卻供奉著著記有光秀戒名的人像。這麼說果然.!?
石田三成は死ななかった説
石田三成沒死成說
関ヶ原の戦いに破れた西軍の大將・石田三成は、一人で山越えしようとしたところを徳川方に捕えられ、京都六條河原で処刑されたと公式には伝えられている。しかし、三成ほどの武將が一人で逃げることは考えにくい。小早川秀明の裡切りによって、勝敗の行方が決した頃、三成は戦場から逃亡したという説がある。
官方稱,在關原之戰中被擊潰的西軍大將石田三成在試圖獨自翻山而逃時被德川方面抓獲,於京都六條河原處刑。然而,很難想像像三成這樣的武將會獨自逃跑。不過也有說法稱,因為小早川秀明的倒戈,三成在勝負已分之時就已經逃離了戰場。
三成は三人の供とともに農家に身を隠した後、出羽國(秋田県)の佐竹義宣のもとに身を寄せた後、出家したという言い伝えが當地に殘っている。
此外,秋田縣當地也有傳聞稱,三成帶著三位隨從到農家隱居後,和出羽國(秋田縣)佐竹義宣一同生活一段時間後出家了。
徳川家康は2度死んだ説
德川家康死過兩次說
堺南宗寺に次のような話が伝わっている。徳川家康は大阪の陣のおり、真田幸村隊に迫られ身の危険を感じて棺の中に隠れて逃亡しようとした。ところが、「この棺は怪しい」と感じた後藤又兵衛がこの棺を槍で突き刺してしまった。中に家康がいることは露見しなかったが、家康は重傷を負って絶命してしまったという。
堺南宗寺有這麼一個說法。德川家康在大阪之陣之時,因真田幸村小隊的到來而感到危險的他試圖藏在棺材中逃跑,但這時後藤又兵衛覺得「這口棺材真奇怪」而拿長槍刺了幾下。家康雖然沒有暴露,卻也深受重傷命絕與此。
この事実を公表するわけにはいかなった徳川方は急遽、「替え玉」を立てた。翌年、有名な天麩羅事件(鯛の天麩羅を食べたのが原因で死亡)で世を去ったのはこの「替え玉」の家康だったのだ!
不能暴露這一事實的德川方面緊急找來了「替身」。也就是說第二年,因著名的天婦羅事件(因食用鯛天婦羅而死)而離世的其實是「替身」家康!
斎藤道三は2人存在していた説
齋藤道三有兩人說
一介の油売りから身を起こし、美濃の國主にまで登り詰めた斉藤道三の生涯は、司馬遼太郎の『國盜り物語』などで、広く世間に知れ渡っている。しかし、最近の研究によれば、道三が成し遂げたといわれている業績は道三と彼の父、つまり親子二代で築き上げたものだというのが定説。
以一介油商起家,最終成為美濃國諸侯的齋藤道三的一生因司馬遼太郎的《國盜物語》等作品而廣為人知。不過,根據最近的研究發現,道三晉升的這條路其實是道三和他的父親,也就是父子兩代達成的。
つまり、妙覚寺の住職から油商人となり、西村から長井へと名を変えて仕官したというのは、すべて道三の父の経歴。父の後を継いで、長井家を乗っ取り、美濃の國主となったのが道三の本當の経歴。美濃のマムシと呼ばれた傑物は、油売りから一代で身を起こしたわけではなかったのだ。
也就是說,從妙覺寺主持轉為賣油商人,從西村改名長井前去做官的經歷都是道三父親的經歷。而繼承父業,奪去長井家成為美濃國諸侯的才是道三真正的經歷。被稱為「美濃的蝮蛇」的人物並不是在一代人的時間從油商發跡成諸侯的。