作者丨Kato Keiichiro
譯者丨詣斐君
我與姐姐20年不曾交談。這是真事。
雖然現在時而用LINE或是簡訊聊天,但是真的見面時我們一句話都不說。
事情的起源
我的姐姐小學時是個開朗陽光的孩子,但是初中之後開始拒絕上學。有一天,我患有狂躁抑鬱症的母親言詞兇狠地罵了她。
這件事情之後,我姐姐便離家出走了。警方開具了搜查令,母親仍然和什麼事都沒有發生似的,在外和警察說話。父親也是這樣的態度。在我幼小的心靈中,父母是令人可怕的。自此之後,我姐姐就變得不和家裡人說話了。
當我和大家說「飯做好了」的時候,也只是點一下頭,單方面地傳達罷了。
姐姐似乎想要有所改變,上了高中之後開始活潑起來。我也只是單單從母親那裡打聽一下,她去姐姐的學院祭啊家長會談之類的活動時姐姐的情況,我和姐姐幾乎沒有任何關係。
姐姐在打工上投入大量精力盡心盡力,似乎是想從家中逃脫。而一方面,在家裡的我卻被家中各種瑣碎蕪雜所累,心煩氣躁。
比起關於姐姐高中、專業技校的學費的牢騷,我一直聽到的是母親咒罵姐姐的話。我沒有去打工的閒暇精力,於是只好一心忍耐。我羨慕能打工能過自己想過生活的姐姐,且憎恨著她。我一直在想,為什麼我即使如此還是不得不每天聽著別人的抱怨呢?
我和姐姐兩人都有手機之後,連電話號碼、簡訊郵箱都沒有互相告訴。似乎有很長一段時間。我們確實住在一起,算是家人吧,如今也會那麼想。
終於,我們交換了電話號碼和短息郵箱
在父親常常酒後狂躁,家庭快要崩潰的邊緣,我們交換了電話號碼和簡訊郵箱。不過,完全沒有聊天。只是相互保持一些沒有感情的只是事務性的聯絡。
2011年母親住進封鎖式醫院時,我覺得她也沒有怎麼去探望,當然我也沒怎麼去過。
所謂親人到底是什麼?我這樣過想過,但找不到答案。每天互相謾罵爭吵的父母和每天只是聽到罵聲的我。還有,因此產生距離的姐姐。
姐姐的想法似乎已經變了。她好像很珍視家人了。似乎已經和母親開始正常的聊天了。
姐姐對家人開始珍視有加。也只有我每次旅行回來只拿那些簡單的點心來應付了。
姐姐進了一家有名的公司。而我碌碌無為,什麼都沒有。除了以前收集來的東西什麼都沒有。而姐姐愈發地擴展了自己的活動範圍,自己積極地去參加那些研討會、學習會。我跟她也沒有絲毫聯繫,只是單方面從母親那裡聽到那些姐姐參與活動的報告。
2013年9月,那時母親精神狀況十分不好。我們商量要不要將母親送入封鎖式醫院。母親大怒,言辭非常激烈地罵我。我沒有房子,下班之後只有回家,沒有迴避之所。父親一副事不關己的態度,任由我繼續被罵。
我的精神接近崩潰。實在束手無策了,我發了LINE給姐姐尋求幫助。可是,她回復我的答案卻是「我可能快要結婚了。因為你是長男,父母和姐姐奶奶就拜託你好好照顧了。」我當時就絕望了。告訴她,我們正在討論要不要把媽媽送進封鎖式醫院,她也只是冷冷地回了一句「你和家裡人商量吧。」
家人到底是什麼?我對此感到絕望。我當時口腔內炎症很厲害,做著不含交通費,最低時薪的工作,沒有錢,我拜託姐姐說「能給我的胃稍微溫和一點的吃的東西嗎?」的時候,她回答我說「和爸爸去說就好了。」我和父親就沒有交流過,只是父親不斷揶揄嘲笑我。
在聊了很多之後,姐姐終於意識到家裡情況不大好,於是過來稍微幫忙打掃了一下,又回到自己家去了。
我被僱做著薪水極低的工作,姐姐與家人的吵鬧保持著距離,在大公司工作,致力於完善自我,經常旅行,過著快樂的生活。
不久之後,母親被診斷出了癌症,我不知道姐姐是不是為了補償什麼而經常去看望她。
姐姐總是佔盡好處。帶著父母去旅行,給她們紀念品。有了什麼活動了就邀請他們去。
相反的,我總是每天都像個沙袋一樣,被罵聲包圍,每天過得都很崎嶇,而姐姐只會在那些好的方面下功夫,探病呀,旅行呀。
我的精神已經受到打擊,家人的每一次呼吸間我都總是被當做是個壞人。我已經完全喪失了那種要被家族貢獻的心了。
能幹的姐姐,無能的弟弟。
在大公司就職,在學習會上作為製作方而活躍的姐姐。
不管做什麼都做不好的我。父母和姐姐在一起對我的無能批判,指責。
就算我讀1000遍教科書也肯定不能與姐姐精神上的距離接近1釐米。
現在就算我見了姐姐也不說話。
那個不知道算不算家人的家人。
原 文
実の姉と20年間話していない。という話とその確執今はLINEやメールなどでやり取りすることはあるが、実際あった時に話をすることはない。事の発端姉は、小學生の頃は、陽気な人だったが中學生になると不登校になった。ある日雙極性障害の母がすごい剣幕で姉を怒鳴っていた。
後日、姉は家出した。捜索屆けが出され、母は何事もなかったかのように、外面で警察官と話していた。父もそんな感じだった。両親は恐ろしいと、子供心ながらに思った 。それ以來、姉は家族と話さなくなった。
私がご飯が出來たと家族に告げる係りで、ご飯が出來たといってもうなづくだけで、一方的に告げているだけだった。
姉は、変わりたかったらしく、高校に入ると活発になった。母から學園祭や面談で學校に行った時、や、ちょっとした出來事を聞くだけで、私と姉はまったく関わりがなか った。
姉はバイトに精をだしてがんばっていた。家から逃げるように。一方、家にいる私は家族のさまざまないざこざに巻き込まれて悩み切っていた。
姉の高校や専門學校の學費に関する愚痴というより、罵聲を姉の代わりに母から聞かされ続けた。私はバイトすら働けるような精神的な餘力もなく、ひたすら耐え続けた。 バイトをして、好きな生活をしている姉を羨み、そして憎んでいた。私はなぜこんなにも、他人の愚痴を聞かされなければならないのだろうと思いながら。
私と姉、二人とも攜帯電話をもつようにっても、電話番號、メールアドレスすらお互い知らなかった。長いことそうだった。確かに一緒に住んでいるのだが、家族だったの だろうかという、想いは今もある。
ようやく電話番號とメールアドレスを交換するが・・
父が泥酔して暴れたり、そういう家庭の崩壊が見えてきたときにようやく電話番號とメールアドレスを交換した。だが、やり取りは全くなく。感情のない事務的な連絡のみ にとどまった。
2011年母が閉鎖病棟にはいったときもあまり見舞いに行かなかった気がする。もちろん、私もそうであるが。
家族とは何なのだろう。そう考えていた。答えは出ない。罵聲を浴びせ合う両親と、ただただ罵聲を聞かされる私。そして、それから距離を取る姉。
姉は考えを変えたようだった。家族を大事にしようと考えたようだった。母とやり取りしているようだった。
姉は両親を大事にしていた。旅行からのお土産も私だけお粗末なお菓子のみだった。
姉は有名な會社に就職した。私はボロボロで、何もなかった。集めたものくらいしか無かった。姉はさらに、活動を広げ、自己啟発的なセミナーや勉強會に參加していた。 姉とはなんのやり取りもなく、その活動の報告を母から一方的に聞かされるだけだった。
母の精神的な調子がとても悪い時、2013年の9月ごろのことだ。閉鎖病棟への入院を検討していた。私はものすごい剣幕で私は怒鳴られていた。私は部屋がな く、仕事から帰っても、逃げ場はない。父は知らない顔をして、私は怒鳴られ続けた。
精神的に限界だった。わらをも摑む気持ちで、姉に助けをLINEで求めた。だが、帰ってきた答えは「私は結婚するかもしれないから、父、母、祖 母、叔父をよろしくね。長男なんだから。」だった。私は絶望した。閉鎖病棟への入院を検討していると告げても、「家族で話し合って。」と冷たくあしら われてしまった。
家族とはこんなものだと、絶望した。口內炎がひどく、交通費なしの最低時給で働いていたので、お金がなく、「胃に優しいものが欲しい」と頼んだところ、「父と相談す ればいい」とあしらわれた。私は父ともほとんど會話をしておらず、父から皮肉を言われるばかりだった。
いろいろやり取りするうちに、ようやく、姉は狀況が良くないと気づいたようで、掃除だけ少し手伝って、自分の家に帰って行った。
私は安い賃金でこき使われ、姉は家族の喧騒から距離をおき、エリート企業に勤め、自己啟発に勤しみ、旅行に行き、楽しい生活を送っていた。
その直後、母にガンがみつかり、姉は何の埋め合わせかわからないが、よく見舞いに行っていた。
姉はいいとこ取りだった。旅行にだけ連れて行く、お見上げを渡す。イベントがあったら呼ぶ。
逆に私は毎日のようにサンドバックのように、罵聲を浴びせられ、ボコボコなされていたのに、姉は見舞いとか、旅行とか、いい面だけ関わっていた。
私は精神的に折れてしまったので、家族のあうんの呼吸でいつも私が悪者にされる。家族に貢獻しようという気持ちも、私からは失われた。
良い姉と、ダメな弟。
エリート企業に勤め、勉強會プロデューサとして活躍する姉。
何をやっても上手く行かない私。家族三人揃って私を、出來損ないの私を否定したり、非難したりし続けた。
きっと、テキストを1000回やり取りしても、姉との精神的な距離は1cmも近づけないだろう。
今も姉とは會っても話すことはない。家族かどうかわからない家族だ。****
<了>
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