中國の精神醫學の発展を推進した友好使者(上) ——日本の精神醫學教授原田憲一先生

2021-02-26 王祖承精神世界

 

    1970年代後半以降、中國と日本の外交関係の樹立に伴い、中國と日本の民間交流も活性化しました。多くの日本の精神醫學の専門家も次々と中國を訪れ、醫療、教育、科學方面より指導を行い、中國精神醫學の発展を推進しました。その中には、著名な元東京大學精神醫學科教授の原田憲一氏がいます。

    彼の長年にわたる中國の精神醫學事業の発展に盡力された友好精神と熱烈な支援に、私どもは心からの感謝を表明し、ここに特に記述を行いたいと思います。

 

一、原田憲一教授の簡単な経歴と主要業績:

(一)生涯

1929.11.14:群馬県前橋市に生まれる

1954.3:東京大學醫學部卒業

1959.3:東京大學大學院(精神科)卒業

1963-1965:西ドイツのMax-Planck Brain Instituteで研究に従事(フンボルト基金)

1968-1972:國立武藏療養所醫長

1972-1984:信州大學教授(醫學部精神科)

1984-1990:東京大學教授

1989年:(中國)上海第二醫科大學顧問教授

1990-1996:神奈川県立精神醫療センター所長

1996-2019:武田病院(非常勤醫師)

1997年:東邦大學醫學部客員教授

2002-2006:日本精神衛生學會理事長。

(二)主要學術業績:

1. モノグラフ:

(1) 器質性精神病、醫學図書出版社、1976年

(2) 意識障害の診斷と治療、診療新社、1980年

(3) 醫學心理學――現代醫學における人間心理(共著)、朝倉書店、1986年

(4) 精神症狀の把握と理解、中山書店、2008年

2. 主な論文:

(1) 播種性紅斑性狼瘡における中樞神経系の病理組織學、(日本)精神神経學雑誌 62(3),467-477,1960

(2) Zur morphologischen Differenzierung hämorrhagischer Encephalitiden. Deutsche Zeitschrift für Nervenheilkunde volume 188, pages142–186(1966)

(3) 症狀精神病の症候學への寄與―「軽い意識混濁」について―、(日本)精神神経學雑誌69(4),309-322,1967

(4) 脳と心、巖波講座 転換期における人間〈3〉心とは、61-95、巖波書店、東京、1989

 

二、原田憲一教授と中國との交流

 最も早くは、1982年7月、日本の精神醫學界の権威者で構成された中國訪問団です。代表団の団員は、順天堂大學、広島大學、信州大學などの有名な精神科の教授と、都立精神醫學総合研究所の所長で構成されました。彼らは中國の北京、杭州、上海などで訪問、交流を行いました。上海に到著後、上海市精神病防治院(當時はまだ上海市精神衛生中心に改名していませんでした)を訪れまし。

  1982年8月1日、上海市精神病防治院の副院長・鄭瞻培教授が責任をもって応対事業に參加し、原田憲一教授と交流が始まりました。

 鄭膽培教授の回想では、以下の通りです。

   私と原田教授との交流の経緯は、次のようなものです。1982年、彼は日本の中國訪問団と共に當院を訪れた。彼は夕食時に私の隣に座っていました。私は、彼が器質性精神病についての本を書いていることを私は知っていたので、彼にそのことを話し、私の敬意を表しました。彼はその場で「症候性精神病」という本をくれました。それは、主に、軀體性疾病の引き起こす精神症狀を論じたものでした。贈呈日は、1982年8月1日です。その後、1985年に東京都精神醫學総合研究所で共同研究に參加した際に何度か彼に會い、彼が臨床精神醫學を大切にし、老人精神醫學に精通していることを知りました。1989年3月3日、東京で開催された全日本精神醫學會會議で特別講演に招待されたとき、王祖承教授の依頼を受け、原田教授を上海第二醫科大學の名譽教授として招待するよう依頼されました。彼はすぐに同意しました。その後、彼と夫人は再び上海に來ました。私は機會があり、彼らと再び友好交流を持つことができました。彼が私に與えた印象は、謙虛、善良、かつ見識のある學者で、精神醫學の臨床研究を重視しているということでした。2008年12月23日、彼は新作『精神症狀の把握と理解』を寄贈してくださり、ここで精神科の醫師が精神症狀を掌握することの重要性を強調しています。彼は、診斷が困難な場合に「狀態診斷」を応用すべきであることを主張し、下記の狀態、うつ病狀態、不安と緊張の狀態、幻覚狀態、興奮狀態、慢性的な衰退狀態、せん妄狀態の6つの「狀態」を包括すべきであることを提案しています。

 

三、原田健一教授が中國上海第二醫科大學の任命を受け入れ

 多くの連絡を経て、1989年前半、東京大學精神科教授の原田憲一先生は、上海第二醫科大學の顧問教授の招待を喜んで受諾されました。

 この事が実現するまで、彼は「顧問教授」がどのような役割を果たすべきか、どのような支援をすべきか、どのような事を行うべきかを、理解していませんでした。このため、何度も、私に連締をくれました。私は彼に対して、これは名譽ある稱號であり、精神醫學の方面で造詣と學術水準がある外國の研究者に対し、また中國の友好人士に対する一種の尊敬を表したものであると述べました。そして、將來的には、この専門分野で主導的かつ指導的な役割を果たされることを希望しました。具體的には、情報の提供、雙方の発展協力、雙方の人員の訪間、參観、學習などです。具體的な仕事は、相談して後に能力の範囲內で行うこととしました。彼はこれを聞くと非常に喜び、參加を表明されました。

 顧問教授は、嚴和駸病院長、鄭瞻培副院長、張明園教授、王祖承教授、荘英蘭主任、及び當時は年少の肖世富、方貽儒、何燕玲醫師(現在、彼らは皆、國內で著名な精神料の専門家です)、この他に研究所の教學幹事・李雲龍先生も関係のある各項の準備に參加しており、全員で集合寫真をとりました。

 任命式では、薛純良副學長が熱情あふれるスピーチを行い、上海第二醫科大學を代表して招聘書を贈呈し、自ら上海第二醫科大學の校章を差し上げました。次に、原田憲一教接から2つの學術報告がありました。1つは現場の口頭報告であり、器質性精神病の診斷に関するものです。もう1つは書面の報告であり、麻痺性痴呆の臨床診斷から引き出された診斷規律です。彼は雙方の観告書で、詳細な文字による原稿を提出しました。私はこれに基づき,全文を翻訳し、病院で印別して、會議の出席者すべての聴眾に配布し、閲覧の參考にしました。原田教授の仕事に対して真剣で、素晴らしいスピーチ內容は、私どもの視野を広げてくださいました。彼は、過去の麻痺性痴呆症の伝統的な見方を、現在の精神分裂症の疾病に対するものへと変えてくれました。2つの病気の本質は異なりますが、科學的思考の原則は同じです。彼は日本で最も有名な大學の教授に値します。また、彼が上海第二醫科大學の顧問教授を擔當してくださることに、私どもは光栄に思います。

 講演終了後、原田教授夫妻と同行し、病院本部と閔行支部を訪問しました。當時、支部の指導者たちは熱心に迎えに來てくれました。支部は1935年に設立されました。既に60年も経過していますが、今日の環境を維持しています。古い精神病院の特徴は、豊かな歴史的風貌を殘した點にあります。原田教授も感銘を受け、中國で最も伝統的な精神病院の規模、特に上海市精神病防治院の環境と人文の特色について深く理解されたようでした。

 この後、原田教授と夫人は上海第二醫科大學を訪れ、同校で最も特徴的な図書館を見學しました。この大學の敷地は、1903 年に馬相伯先生によって設立立されたカトリックの大學、すなわち震旦大學です。この大學はかつて 「パリの東洋大學」として知られていました。その醫療部門は、1952年にアメリカのキリスト教の聖公會に所屬するセントジョンズ大學と合弁しました。これはかつて「東ハーバード大學」として知られていました。徳醫大學と統合した後,上海第二醫學院となりました。その後,上海第二醫科大學と改名し、現在は上海交通大學醫學院になっています。原田教授もこの歴史に非常に興味を持っており、訪問後、深い印象を持たれたようでした。彼はまた,この大學の顧問教授になるとを光栄に思われたようでした。

 この後、1989年11月の「上海二醫報」では、重ねて原田憲一教授が上海第二醫科大學の顧問教授になったというニュースを発表しました。

 

(未完待續)

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