東京とうきょうの渋谷しぶや駅えきの待まち合あわせ場所ばしょの定番ていばんとして、秋田あきた県ハチ公こうの銅像どうぞうがあります。
臺だいの上うえに座すわって、じっと駅えきの改札かいさつ口ぐちを見みている犬いぬの銅像どうぞうです。
このお話はなしは、その銅像どうぞうになったハチ公こうのお話はなししです。
むかし、ハチ公こうは東京大學とうきょうだいがく農學部のうがくぶの教授きょうじゅだった上野うえの英三郎ひでさぶろうという博士はかせの家いえの飼かい犬いぬで、子犬こいぬの時ときに博士はかせの家いえにもらわれてきたのでした。
博士はかせはハチ公こうを大変たいへん可愛かわいがり、ハチ公こうも博士はかせが大好だいすきです。
博士はかせが大學だいがくに出でかける時とき、ハチ公こうは家いえの近ちかくの渋谷しぶやの駅えきまで毎日まいにち必かならず博士はかせのお供ともをするのです。
そして夕方ゆうがたになり博士はかせが帰かえって來くる時間じかんになると、また駅えきへ博士はかせを迎むかえに行いくのです。
時々ときどき、博士はかせが帰かえって來くるのが遅おそくなる日ひがありましたが、ハチ公こうはどんなに遅おそくなっても必かならず駅えきの前まえで待まっているのです。
「ハチ公こう。こんな所ところにいては邪魔じゃまだよ」
駅えきの人ひとに怒おこられる事こともありましたが、ハチ公こうは吠ほえたり噛かみついたりせず、博士はかせが帰かえって來くるのをおとなしく待まっているのでした。
そんな平和へいわな日々ひびは、一いち年ねん半はんほど続つづきました。
でも、1925年ねん5月ごがつ21日にち、ハチ公こうに送おくられて大學だいがくへ行いった博士はかせが、突然とつぜん倒たおれてしまったのです。
みんなはすぐに博士はかせを手當てあてをしましたが、博士はかせは助たすかりませんでした。
博士はかせは死しんでしまったのですが、ハチ公こうにはその事ことがわかりません。
ハチ公こうは夕方ゆうがたになると博士はかせを迎むかえに駅えきまでやって來きて、そして博士はかせを一晩ひとばん中ちゅう待まって、朝あさになると家いえに帰かえり、また夕方ゆうがたになると博士はかせを迎むかえに駅えきまでやって來くるのです。
そのハチ公こうの姿すがたを見みた人ひとたちは、目めに涙なみだを浮うかべました。
「ハチ公こう、かわいそうになあ」
「死しんだ博士はかせを、毎日まいにち待まっているなんて」
こうして帰かえって來こない博士はかせをハチ公こうが迎むかえに行いく日々ひびが七なな年ねん続つづいた時とき、ハチ公こうの事ことが新聞しんぶんにのりました。
するとそれを知しった多おおくの人ひとが、ハチ公こうを応援おうえんしました。
駅えきの人ひとも、雨あめの降ふる日ひなどは、ハチ公こうを駅えきの中なかで寢ねかせてあげました。
そしてとうとう、十じゅう年ねんが過すぎました。
すると駅えきの人ひとや近ちかくの人ひとが集あつまって、感心かんしんなハチ公こうの銅像どうぞうをつくる相談そうだんをしました。
銅像どうぞうが完成かんせいしたのは、ハチ公こうが博士はかせを待まつようになってから十二じゅうに年ねん目めの事ことです。
その頃ころハチ公こうは、よぼよぼのおじいさんになっていました。
毎日まいにち毎日まいにち、弱よわった體からだで帰かえって來こない博士はかせを迎むかえに行いくのは大変たいへんな事ことです。
でもハチ公こうは頑張がんばって頑張がんばって、博士はかせを迎むかえに行いきました。
そして銅像どうぞうが出來できた次つぎの年としの1935年ねん3月さんがつ8日午前ごぜん6時じ過すぎ、十三じゅうさん才さいになったハチ公こうは帰かえって來こない博士はかせを待まち続つづけたまま、自分じぶんの銅像どうぞうの近ちかくで死しんでしまったのです。
でも、悲かなしむ事ことはありません。
天國てんごくへ行ったハチ公こうは、大好だいすきな博士はかせと一緒いっしょに暮くらしているのですから。
おしまい
十年,我用一生等一個人的出現!