小說的開篇第一句話往往很能代表作者創作時的思想和心態,常常能以聊聊數語就言簡意賅地勾勒出整部作品的故事輪廓和表達意境,吸引讀者隨著作者跌宕起伏創作思路,看完整部作品。
以下收錄了50篇震撼心靈的日本文學名作的開場白。每句都附上了中文翻譯,譯文都是小編逐一精心搜集或是翻譯的。你最喜歡哪句呢?可以在留言裡分享給我。
1
國境の長いトンネルを抜けると雪國であった。夜の底が白くなった。信號所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って來て、島村の前のガラス窓を落した。
『雪國』川端康成〈1935〉
穿過縣界長長的隧道,便是雪國。夜空下一片白茫茫。火車在信號所前停了下來。
一位姑娘從對面座位上站起身子,把島村座位前的玻璃窗打開。
《雪國》川端康成 <1935>
2
「おい地獄さ行ぐんだで!」
二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした菸草を唾と一緒に捨てた。巻菸草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身體一杯酒臭かった。
『蟹工船』小林多喜二〈1929〉
「喂!這可是下地獄喲!」
兩個漁工倚著甲板的欄杆,望著像蝸牛探著身子一樣延綿環海的函館街市。一個漁工把吸剩到指邊的香菸頭連同吐沫一口啐出,那菸頭就像有意做著調皮的動作,變著樣兒地翻過去折過來,擦著高大的船幫滾落下去。他一身酒氣。
《蟹工船》小林多喜二 <1929>
3
私は、その男の寫真を三葉、見たことがある。一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の寫真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹たちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている寫真である。醜く?
『人間失格』太宰治〈1948〉
我曾經看見過那個男人的三張照片。第一張,可以說是他幼年時代的相片,想必是在十歲前後拍下的。只見照片上這個男孩子被眾多的女人簇擁著(看來,這些女人是他的姐姐、妹妹,抑或堂表姐、堂表妹),他站在庭院的水池畔,身穿粗條紋的裙褲,將腦袋向左傾斜了近三十度,臉上掛著煞是醜陋的笑容。
《人間失格》太宰治 <1948>
4
春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
『枕草子』清少納言〈996頃〉
春,曙為最。逐漸轉白的山頂,開始稍露光明,泛紫的細雲輕飄其上。
《枕草子》清少納言 <約996>
5
木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは數十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
『夜明け前』島崎藤村〈1929〉
木曾路,全都在山裡。有的地方是峭拔凌厲的懸崖,有的地方是緊臨數丈深淵的木曾川岸,有的地方又是山路縈迴的峽谷隘口。一條道路貫穿著這片幽深的森林地帶。
《夜明前》島崎藤村 <1929>
6
隴西の李徴は博學才穎、天寶の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
『山月記』中島敦〈1942〉
隴西的李徵博學多才,天寶末年,年紀輕輕就金榜題名,隨後做到江南尉。性格狷介,自視甚高,不滿足做個卑微的官。
《山月記》中島敦 <1942>
7
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
『草枕』夏目漱石〈1906〉
我走在山路上,一邊忖度著。太講究理智,容易與人產生摩擦;太順從情感,則會被情緒左右;太堅持己見,終將走入窮途末路。總而言之,這世間並不宜人。
《草枕》夏目漱石 <1906>
8
祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
『平家物語』未詳〈1219以前〉
祗園精舍鐘聲響,訴說世事本無常;婆羅雙樹花失色,盛者轉衰如滄桑。驕奢淫逸不長久,恰如春夜夢一場;強梁霸道終覆滅,好似風中塵土揚。
《平家物語》佚名 <1219前>
9
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦燥と雲おうか、嫌悪と雲おうか―酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相當した時期がやって來る。
『檸檬』梶井基次郎〈1925〉
一種莫名其妙的不祥之感始終壓迫著我的胸口。是焦躁?抑或是嫌惡?好比酒後會有宿醉一般,天天飲酒,便會有宿醉發生。如今,它來了。
《檸檬》梶井基次郎 <1925>
10
ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寢床の中で一匹の巨大な蟲に変っているのを発見した。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに橫たわっていた。頭をすこし持ちあげると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える。
『変身』カフカ (高橋義孝 訳)〈1912〉
一天早晨,格裡高爾·薩姆沙從不安的睡夢中醒來,發現自己躺在床上變成了一隻巨大的甲蟲。他仰臥著,那堅硬的像鐵甲一般的背貼著床,他稍稍抬了抬頭,便看見自己那穹頂似的棕色肚子分成了好多塊弧形的硬片。
《變形記》卡夫卡 <1912>
11
幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。私の生まれたのは、舞鶴から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽である。懇望されて、僧籍に入り、辺鄙な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。
『金閣寺』三島由紀夫〈1956〉
我幼年時代,父親常常同我講金閣的故事。我出生在舞鶴東北一個伸向日本海的荒涼的海角。老家不是這裡,而是舞鶴東郊的志樂。根據眾人的懇切期望,父親遁入空門,當了偏僻的海角寺廟的住持,在當地娶了妻子,生下了我。
《金閣寺》三島由紀夫 <1956>
12
ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
『方丈記』鴨長明〈1212〉
逝川流水不絕,而水非原模樣。滯隅水浮且消且結,那曾有久佇之例。世上的人和居也如此。
《方丈記》鴨長明 <1212>
13
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、「あ」と幽かな叫び聲をおあげになった。「髪の毛?」スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
『斜陽』太宰治〈1947〉
清晨,母親在餐廳裡輕快地啜了一匙子湯,忽然小聲地叫了一聲:「啊!」「有頭髮?」我還以為湯裡有什麼髒東西。
《斜陽》太宰治 <1947>
14
或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。広い門の下にはこの男の外に誰もいない。唯、所々丹塗の剝げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。
『羅生門』芥川龍之介〈1915〉
是一日傍晚的事,有一個家將,在羅生門下待著雨住。寬廣的門底下,除了這男子以外,再沒有別的誰。只在朱漆剝落的大的圓柱上,停著一匹蟋蟀。
《羅生門》芥川龍之介 <1915>
15
死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。
『死者の奢り』大江健三郎〈1957〉
浸泡在濃褐色液體裡的死者們,胳膊肘糾纏著,腦袋頂撞著,滿滿地擠了一水池。有的浮在表面,也有的半沉在水中。
《死者的奢華》大江健三郎 <1957>
16
つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
『徒然草』兼好法師〈1330頃〉
無聊之日,枯坐硯前,心中不由雜想紛呈,乃隨手寫來;其間似有不近常理者,視為怪談可也。
《徒然草》兼好法師 <約1330>
17
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。小學校に居る時分學校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。
『坊っちゃん』夏目漱石〈1906〉
俺爹傳給俺的蠻幹脾氣,使俺從小就沒少吃虧。上小學的時候,有一次俺從學校的二樓上跳下來,挫傷了腰,足足躺了一個星期。也許有人會問:「為啥幹那種傻事?」其實,也沒啥了不起的理由。
《哥兒》夏目漱石 <1906>
18
飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた蟲の羽音だった。蠅よりも小さな蟲は、目の前をしばらく旋迴して暗い部屋の隅へと見えなくなった。
『限りなく透明に近いブルー』村上龍〈1976〉
還以為是飛機的聲音,原來是一隻小蟲子嗡嗡地從耳邊飛過。這只比蒼蠅還小的飛蟲在眼前盤旋了一會兒,便飛到昏暗的角落裡不見了。
《無限近似於透明的藍》村上龍 <1976>
19
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることを許された。
『高瀬舟』森鷗外〈1916〉
高瀨舟是一條行駛在京都高瀨川上的小舟。在德川時代,京都的犯人如果被判要流放遠方的島嶼,那麼將允許這些犯人的親人到監牢裡和他們告別。
《高瀨舟》森鷗外 <1916>
20
ぼくがまだ年若く、もっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告を與えてくれたけれど、爾來ぼくは、その忠告を、心の中でくりかえし反芻してきた。
「ひとを批判したいような気持ちが起きた場合にはだな」と、父は言うのである「この世の人がみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思いだしてみるのだ」
『グレート・ギャツビー』フィッツジェラルド (野崎孝 訳)〈1925〉
在我年紀還輕,閱歷不深的時候,我父親教導過我一句話,我至今還念念不忘。
「每逢你想要批評任何人的時候,」他對我說,「你就記住,這個世界上所有的人,並不是個個都有過你擁有的那些優越條件。」
《了不起的蓋茨比》斯科特•菲茲傑拉德 <1925>
21
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。
『伊豆の踴子』川端康成〈1925〉
道路變得曲曲折折的,眼看著就要到天城山的山頂了,正在這麼想的時候,陣雨已經把從密的杉樹林籠罩成白花花的一片,以驚人的速度從山腳下向我追來。
《伊豆的舞女》川端康成 <1925>
22
山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である巖屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかへて外へ出ることができなかったのである。
『山椒魚』井伏鱒二〈1929〉
山椒魚很傷心。他試圖從自己棲息的巖洞遊到外邊去,但是頭卻卡在洞口出不去了。
《山椒魚》井伏鱒二 <1929>
23
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから著物を一反もらった。お年玉としてである。著物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に著る著物であろう。夏まで生きていようと思った。
『葉』太宰治〈1936〉
想去死。今年的正月,從別處得來了一件和式衣服作為新年禮物。衣服的質地是麻做的,織進了深灰色的細條紋。這是夏天穿的衣服吧。那麼到夏天為止一直活著好了。
《葉》太宰治 <1936>
24
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を棲とす。古人も多く旅に死せるあり。
『奧の細道』松尾芭蕉〈1702〉
日月乃百代之過客,流年亦為旅人。舟上浮浮一生,攬馬首而迎老境者乃累日之旅、棲身之旅。古人多以旅終。
《奧之細道》松尾芭蕉 <1702>
25
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらないて……
『たけくらべ』樋口一葉〈1895〉
三層妓樓燈火闌珊,綠柳低垂,鐵漿溝倒映出燈紅酒綠的迷人盛況。人力車川流不息,從早到晚絡繹不絕,好一派喧囂熱鬧的繁華景象。
《青梅竹馬》樋口一葉 <1895>
26
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
僕が大學生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそう言った。
『風の歌を聴け』村上春樹〈1979〉
「不存在十全十美的文章,如同不存在徹頭徹尾的絕望。」
這是大學時代偶然結識的一位作家對我說的話。
《且聽風吟》村上春樹 <1979>
27
吾輩は貓である。名前はまだない。
どこで生まれたか頓と見當がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
『吾輩は貓である』夏目漱石〈1905〉
我是貓。還沒有名字。
你問我是哪裡出生的,那哪能記得。就記得獨自一人在陰暗潮溼的角落奶聲奶氣地哭。
《我是貓》夏目漱石 <1905>
28
いづれのおほん時にか、女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。
『源氏物語』紫式部〈1008頃〉
話說從前某一朝天皇時代,後宮妃嬪甚多,其中有一更衣,出身並不十分高貴,卻蒙皇上特別寵愛。
《源氏物語》紫式部 <約1008>
29
山の手線に跳ね飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎溫泉へ出掛けた。
『城の崎にて』志賀直哉〈1917〉
昔日曾為山手線的電車碾傷。為了療養,我只身前去但馬地區城崎溫泉。
《在城崎》志賀直哉 <1917>
30
かれは年をとっていた。メキシコ灣流に小舟を浮べ、ひとりで魚をとって日をおくっていたが、一匹も釣れない日が八十四日もつづいた。はじめの四十日はひとりの少年がついていた。
『老人と海』ヘミングウェイ (福田恆存 訳)〈1952〉
他是個老人,獨自劃著小船,在灣流中捕魚;八十四天來,他沒打到魚。起初四十天,有個男孩跟著他。
《老人與海》海明威 <1952>
31
歌島は人口千四百、周囲一裡に充たない小島である。歌島に眺めのもっとも美しい場所が二つある。一つは島の頂きちかく、北西にむかって建てられた八代神社である。
『潮騒』三島由紀夫〈1954〉
歌島是個人口一千四百、方圓不到四公裡的小島。歌島有兩處景致最美。一處是八代神社,坐落在島的最高點,望西北而建。
《潮騷》三島由紀夫 <1954>
32
さいつ頃、雲林院の菩提講のまうでて侍りしかば、例の人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁二人、媼といきあひて同じ所に居ぬめり。
『大鏡』未詳〈1080頃〉
前幾日,我去聽雲林院的菩提法會時,路見兩位比常人年邁很多、並且神色怪異的老者和一位老婦人同坐在一起。
《大鏡》佚名 <約1080>
33
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して來た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
『走れメロス』太宰治〈1940〉
梅洛斯憤怒至極。他發誓一定要除掉那個邪惡暴虐的國王。梅洛斯不懂政治,他只不過是一個普通的牧人,終日在村裡吹笛子,和羊群嬉鬧,如此度過每一天。然而對於邪惡,他卻比誰都倍加敏感。
《奔跑吧梅洛斯》太宰治 <1940>
34
私がこの世でいちばん好きな場所は臺所だと思う。どこのでも、どんなのでも、それが臺所であれば食事をつくる場所であれば私はつらくない。できれば機能的でよく使いこんであるといいと思う。乾いた清潔なふきんが何まいもあって白いタイルがぴかぴか輝く。
『キッチン』吉本ばなな〈1987〉
這個世界上,我想我最喜歡的地方是廚房。無論它在哪裡,是怎樣的,只要是廚房、是做飯的地方,我就不會感到難過。可能的話,最好是功能齊備、使用方便,備有好多塊乾爽整潔的抹布,還有潔白的瓷磚熠熠生輝。
《廚房》吉本芭娜娜 <1987>
35
蓮華寺は下宿を兼ねた。瀬川醜松が急に転宿を思い立って、借りることにした部屋というのは、その蔵裡つづきにある二階の角のところ。
『破戒』島崎藤村〈1906〉
蓮華寺也可供外人寄宿。瀨川醜松忽然決定搬遷到這裡來,他定租的房間在二樓與廂房相連的拐角處。
《破戒》島崎藤村 <1906>
36
男もすなる日記といふものを女もしてみんとてするなり。それの年の、しはすの、二十日あまり一日の日の、戌のときに門出す。そのよしいささかにものに書きつく。
『土佐日記』紀貫之〈935頃〉
聽說男子們在寫一種叫日記的東西,身為女子的我也想嘗試著寫一寫。那年我於十二月二十一日戌時出發。在此簡要記錄一下當時的事情。
《土佐日記》紀貫之 <約935>
37
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、そのほうが私にとって自然だからである。
『こころ』夏目漱石〈1914〉
我常常把他稱為先生。因此這裡也只寫作先生,而不公開他的姓名。與其說這是顧忌人言可畏,不如說這樣對我更自然一些。
《心》夏目漱石 <1914>
38
それはまだ人々が「愚」と雲う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。
『刺青』谷崎潤一郎〈1910〉
這些事發生在輕浮的貴族局德還在全盛的時代,在當時,今日的那種為生存而無情鬥爭仍未為人所知。
《刺青》谷崎潤一郎 <1910>
39
桜の樹の下には屍體が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが來た。桜の樹の下には屍體が埋まっている。これは信じていいことだ。
『桜の樹の下には』梶井基次郎〈1928〉
櫻花樹下埋著屍體!
這是可以相信的。因為啊,櫻花居然開得那麼豔麗,令人無法相信,不是嗎?我就是由於無法相信那樣的美,這兩三天才會如此不安。可現在終於明白了,櫻花樹下埋著屍體。看來,這美是可以相信的。
《櫻花樹下》梶井基次郎 <1928>
40
幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。
オブロンスキー家ではなにもかもが混亂してしまっていた。
『アンナ・カレーニナ』トルストイ (木村浩 訳)〈1877〉
幸福的家庭都是相似的,不幸的家庭各有各的不幸。
奧布隆斯基家裡一切都混亂了。
《安娜·卡列寧娜》列夫·託爾斯泰 <1877>
41
永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。それを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。
『仮面の告白』三島由紀夫〈1949〉
很長時間,我總是堅持說我看到過自己出生的情景。每每說起此事,大人們就笑,最後總感到自己似乎是被嘲弄了,就以一種略帶憎惡的眼神,盯著這個面色蒼白得不像個孩童的孩子。
《假面的告白》三島由紀夫 <1949>
42
さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤獨の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。葉緑體?オオカナダモ?ハッ。っていうこのスタンス。
『蹴りたい背中』綿矢りさ〈2004〉
寂寞——在耳邊叫囂。那如鈴鐺般脆響的聲音,刺痛我的耳膜,幾乎憋得讓人喘不過氣來。我把手裡的紙片撕得又細又長,發出的刺耳噪音蓋過了孤獨的叫囂,這樣至少周圍人不會聽到……或許我的樣子看起來很懶散吧!葉綠體?水蘊草?啊?……搞得我一頭霧水。
《欠踹的背影》綿矢麗莎 <2004>
43
それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を橫たえていたものだった。
『風立ちぬ』堀辰雄〈1938〉
在那些夏日裡,在彌望著茂密芒草的草原中,當你站在那裡專心致志地作畫的時候,我總是躺在旁邊一株白樺的樹蔭下。
《起風了》堀辰雄 <1938>
44
今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、萬の事に使ひけり。名をばさぬきのみやつことなん言ひける。
『竹取物語』未詳〈901頃?〉
從前,有個老人。他經常到山中伐竹,製成竹籃、竹籠等器物,賣給別人,用以維持生計。他叫贊岐造麻呂。
《竹取物語》佚名 <約901>
45
僕と弟は、谷底の仮設火葬場、灌木の茂みを伐り開いて淺く土を掘りおこしただけの簡潔な火葬場の、脂と灰の臭う柔かい表面を木片でかきまわしていた。
『飼育』大江健三郎〈1958〉
我和弟弟來到峽谷底的臨時火葬場。在這座只是砍掉茂密灌木叢、挖去淺淺土層後搭建的簡易火葬場裡,我們用木片翻開散發出油脂與灰燼味道的鬆軟表面。
《飼育》大江健三郎 <1958>
46
千早振る神無月ももはや跡二日の餘波となった二十八日の午後三時頃に、神田見附の內より、塗渡る蟻、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよ沸出でて來るのは、孰れも顋を気にし給う方々。しかし熟々見て篤と點検すると、これにも種々種類のあるもので。
『浮雲』二葉亭四迷〈1887〉
寒風凜冽的舊曆十月只剩最後兩天了。就在這二十八日下午三點鐘的光景,從神田的城門,絡繹不絕地湧出來一股散亂蠕動的人群。他們雖然都很留心自己的儀容,可是,如果你仔細地對他們觀察一番,真是形形色色各有不同。
47
禪智內供の鼻と雲えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。雲わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。
『鼻』芥川龍之介〈1916〉
談起禪智內供的鼻子,池尾地方無人不曉。它足有五六寸長,從上唇上邊一直垂到顎下。形狀是上下一般粗細,酷似香腸那樣一條細長的玩意兒從臉中央耷拉下來。
《鼻》芥川龍之介 <1916>
48
やまとうたは、人の心を種として、萬の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
『古今和歌集 仮名序』紀貫之〈905〉
夫和歌者,託其根於心也,發其花於詞林者也。人之在世不能無為,思慮易遷,哀樂相變,感生於志,詠形於言。
《古今和歌集》紀貫之 <905>
49
石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜かにて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。
『舞姫』森鷗外〈1890〉
煤炭很快堆放完畢。二等艙桌旁一片寂靜,弧光燈徒然發出亮光。
《舞姬》森鷗外 <1890>
50
きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム。マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。
『異邦人』カミュ (窪田啟作 訳)〈1942〉
今天,媽媽死了。也許是昨天,我不知道。我收到養老院的一封電報,說:「母死。明日葬。專此通知。」這說明不了什麼。可能是昨天死的。
《局外人》加繆 <1942>
▼
日文整理:heki
中文編譯:heki
編輯排版:heki
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