【上村松園】わが母を語る

2021-02-07 日語學習 假名標註


     竹を割ったような性格

 私の母は、一口にいうと男勝りな、しっかり者でしたな。私は母の二十六歳の時生まれ、四つ年上の姉が一人だけありました。私の生まれたのは、明治八年四月二十三日、私の父が死んだのが同じ年の二月。つまり母は、主人を失ってから私を生んだわけです。父は四條御幸町に店を構え、茶舗を創めたばかりのところでした。そんな時に、父が亡くなったのですから、親類、母屋の人々は「二十六歳の若さで子供二人抱えて、とても、店を張ってやってゆけるものではない。店はやめて小そうなれ」と言う。けれど気丈な母は、せっかく主人の創めた仕事だし、今店をやめて小さく暮しては、いつ大きくなれよう。何としてもこのまま店を張ってゆきたいと考え「大事おへん。店はやってゆきます」と親類の人に言い切ってしまいました。
 こう言ったからには、誰に一釐の厄介もかけることはできないと思い定め、一人の丁稚を追いまわし、女手一つで店をやっていきました。體は至って壯健で、実にまめによく働きました。私が五歳位の時でしたろう。ふと夜中の二時頃、目をさますと、ザザァザザァという音がする。「なんや?」と思うとそれは母が焙爐ほいろの茶をかえしている音でした。茶商売では、茶を飲み分けることができないとあきまへん。というのは茶とんびといって、今でいえばブローカーですな、これが茶を売りこみに來ます。「これは宇治の一品や」と言うても母は「まあ、飲んでみよう」と言って飲んでみる。よく味わって「いや、これには靜岡ものが混ぜてある」と見やぶってしまいます。それで始めは「若後家だ、だましてやろう」という気で來た茶とんびも、「あそこはごまかしが利かぬ」と分って、良い茶をもってくるようになりました。母は茶を飲み分ける鋭敏な感覚をもっておりました。四條通りは人通りも多く、追々お得意もふえお店は繁昌しました。ところが、私が十九歳の時、隣家から火が出て危く全焼はまぬがれましたが、荷物は表へほうり出されて、ドロドロになる。瓦はみんなめくられてしまうという騒ぎ。火事がおさまってみると、表口は何ともないのに奧は半壊の狀態で、雨もりはする、とてもここに住めないというので、半丁程はなれた知合いの家に引移り、母は商売をつづけました。その年に姉が嫁ぎましたので、母は私と丁稚との三人暮しとなりました。そこで母は四條通りは繁昌してよいが、人通りが多く夜も店を閉めるわけにはいかない、夜は店もしめて、少しはゆっくり出來るように、ひっそりした町へ住みたいと考えて、堺町四條上ったところへ移りました。
 田舎出の女中一人使って、母は店へ出られ、私は靜かな二階で、落ちついて絵を描けるようになりました。

     〈四季美人図〉英皇子のお買上げ

 私は小さい時から絵が好きで帳場のかげで絵ばかり描いていましたが、母はそれを叱るどころか「それほど好きなら、どこまでもやれ」と、勵ましてくれました。しかし、はたはそうはいかず、親類知人は、「女子はお針や茶の湯を習わせるものだ。上村では、女子に絵なぞ習わせてどないする気や」と母を非難したものでした。なかにも、一人ゴテの叔父がおり、とやかく申すのでしたが、私が十五歳の時、東京に開かれた內國勧業博覧會に、〈四季美人図〉を初出品しましたら、丁度、來遊されていた英國の皇子コンノート殿下のお目にとまり、お買上げということになり、一時に上村松園の名が、新聞紙上に書き立てられますと、その叔父が一番に飛んで來て、「めでたいこっちゃ。大いにやれ」と大した変りようでした。次には、パリに出す、セントルイスの展覧會には入選するというようになり、銅牌やら銀牌やら、海の向うから送ってきました。日本の國內にも、美術協會が出來る。明治四十年には文展が出來る。

     行き詰りを開く母の言葉

 明治の時代はよい時代でしたな。世の中が、活気づいて、すべてのものが興ってくるという気配でした。
 母と申せばこんなことがありました。ある年、文展の締切が近づくのに、どうしたことか構想がまとまらず、妙に粘ってきました。今思えば、明治四十二年、文展第三回の時でした。気持ちはいらいらしてくる。つい、口もきかず、朝から畫室にとじこもっていると、母が來てこう言います。「何をくさっている。そうや、文展の絵が、かけんでくさっているのじゃろ。なに、今年はやめなさい」私は毎年出品してきたのに、今年だけ出さないのは殘念でなかなかそんな気持になれません。すると母は「文展はまあ、皆の畫を並べている店のようなものではないか。大空から、その店を眺めるつもりになってごらん。今年は私の絵がないのでさぞお店がさびしかろう。來年は、私の絵でうんと賑わしてやろうと、まあこんな風に考えてごらん。それ位の自信とうぬぼれがなくてはあかん」その母の一言で、私の粘っていた気持は、すぽっととけてしまい、それで、思い切って文展出品をやめ二ヶ月後にあったイタリアへの出品に心を定め、落ちついて構想をまとめ〈人形遣い〉を描いて入選しました。母は竹を割ったような性格で、何度か私が思いなやんだり、迷ったような時に、活路を開いてくれました。
 母はそんなたちですから、しゃっきりしすぎていたのでしょう。誰にも遠慮なくずばずばと思うことを言いました。昔、辰巳という國民新聞の記者が、よく家へ見えましたが、後に「あなたのお母さんには、よく叱られた」と言われたことがあります。

     絵心のあった血統

 私の絵の素質がどこからきたのかと言われれば、母方からと言えましょう。母も絵心のある人でした。母方の祖父も絵が好きでした。四條通りには、袋物や古本の夜店がよう出ました。母はそんなところで、古い絵の本を買うてそれを寫しておりました。字はとても達筆でした。茶の壺に貼る茶名をかいた紙が、赤くなると、母は自分で書いてはりかえます。
 母の二十六、七歳のころの手になるお茶の値段表を今も記念に殘していますが、亀の齢一斤六圓也、綾の友一斤五圓五十銭也などと達者なお家流の字でかいてあります。正月の松の內など、店も表戸をしめて休みますが、その頃は出入口の戸障子に、酒屋なら「酒」お茶屋なら「茶」と大文字でかいてあったものですが、母は、そんな大文字も自分で書きました。店先にさげる大提燈も提燈やのかいた「茶」の字が、しけているといって真白く張りかえさせて自分で大きく「茶」とかきました。私は、その墨をすらされたので、よう覚えています。
 私が二十八、九歳の頃、母は茶の商売をやめました。人は三十にして立つと言いますが、私も絵を描いて立ってゆけそうでしたので、母は私を絵をかく人らしい環境におこうと考えて商売をやめ、私が三十の年には、御池の車屋町に上品な家があったので、そこへ移り住みました。母は茶商売をやめる時、茶壺に殘った沢山のお茶を「長年御ひいきに預りまして有難うございました」と言って、いつも玉露を買ってくれるところには玉露、煎茶のところは煎茶、お薄のところへはお薄と、全部配って挨拶しました。母は、こんなずばっとしたことを時々やります。

     生粋の京娘

 けれど一方世帯持ちは実によいのでした。こんな話をすると人は何と思われるかしれませんが、母は戴きものをすると、水引きは丁寧にほどき、長い棒にあてて、紙でくるくるとまく。のしはすぐ箱にしまう。紙は上の一枚は反古紙にするが、二枚目の紙は折目があったらこてで延ばし、同じ大きさの紙と一緒にして棒の芯にまいてとっておく。使いたいとき取り出すと、どれも真新しいものと変りないのです。萬事がこういうふうで実によく頭を働かせた。手まめに何事も処理していました。無駄をしないという気持はけちな気持とは全然ちがうと思います。すべき時には、ずばっとやり、わが身辺には、心を使って無駄をしない。この心がけはいつの世にも貴いものだと思います。私も母に特に言い聞かされたというのではないのですが、見よう見まねでその通りやっております。
 母は高倉三條のちきりやという、冬はお召、夏は帷子かたびらを売る呉服屋に通勤していた支配人の貞八の娘でした。生粋の京の町娘というわけです。
 私は親は母一人と思って育ったのです。父がないのを、さびしいと思ったこともありませんでした。私にとっては母はいいもの、一番大切なものでした。
 母は決して甘やかしてはくれませんでしたが、子煩悩でした。旅なぞに出ると、両方で案じ合って、私は母が待っている、一日も早く家へ帰りたいと思い思いしたものです。
 こんなことを思い出します。夕方から縄手の三條の親類へ母が行きましたが、夜になっても帰らない、雪もチラチラしてくる。私は心配になって「迎えに行こう」と言うと、姉は、「もう帰らはるやろ、行った先は分っているのやさかい、傘も貸してくれはるやろ」と言うのですが、私はどうしても迎えに行きたくなって、一人で行きました。
 丁度、母は腰を上げて帰ろうとしていたところでしたが、私を見て「おや」と驚いたらしいのですが、「よう來た」と大へん喜んでくれ、「おう、おう、さぞ寒かったやろ」とかじかんだ私の手を母の両の掌の中にはさんで、もんでくれました。
 母は昭和九年、八十六歳で亡くなりました。が、七十九歳で脳溢血で倒れるまで、実に壯健で、外出すると、若い者の先にたってずんずん歩くという風でした。松篁の嫁を迎えるのも見、曾孫ひまご三人の遊ぶのを眺めて、幸せな晩年を送ったのでした。

(昭和二十四年)


相關焦點

  • 語呂合わせ
    貓が名前に付いた食べ物として、ご飯にみそ汁をかけたり、かつお節をかけたりした「ねこまんま」がありますが、「ねこまんまを食べるのは行儀が悪い」とよく言われます。それはなぜでしょうか。試譯:今天是2月22日,因為諧音讀作「2(ニャン)月、2(ニャン)2(ニャン)日」而被稱為「喵喵節」(這仨字劍舞長空大俠自己編的~~~)作為名字裡帶「貓」字的食品,有一道菜叫做「ねこまんま」,是在米飯上澆上味增汁或撒上鰹魚屑(木魚屑),不過很多人都說吃「ねこまんま」十分不文雅,這又是為什麼呢?
  • JR東日本 來年の春から電車が終わる時間を早くする
    でんしゃが終おわる時間じかんを、來年らいねんの春はるから早はやくします。東京とうきょう駅えきから半徑はんけい100kmの中なかを走はしる全部ぜんぶの電車でんしゃが終おわる時間じかんを30分ぷんぐらい早はやくします。新あたらしいコロナウイルスが広ひろがって、夜よる遅おそくに電車でんしゃを利用りようする人ひとが少すくなくなっているためです。
  • 中國語の聲調ができない人がやるべき5つのこと
    、軽聲もあわせると2音節の聲調の組み合わせが全部で20種類です。新しい単語を覚えるときもで20種類の中でどの聲調パターンになるのか意識して発音練習してきましょう。日本語の抑揚のない日本語になれている日本人は4聲の中でも抑揚の激しい第2聲、第3聲が苦手です。
  • 【有聲日語】《孟母斷織》上村松園
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    私は大學を卒業してから、ずっと日本向けのプロジェクトで働いています。日本語を話せることはとても大切です。
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    と言われ他の日本人も同様釈放されたそうです。狐につままれた感がして祖父は監視に尋ねたそうです。監視は「知らない」の一言、で祖父は刑務所の幹部にそれとなく尋ねたら、中國人労働者から大量の助命嘆願書が提出されたとの事です」 私「それ、どういう事ですか?」
  • 【ふりがな付き】世界がもし100人の村だったら?中國語を話すのは12人
    スペインの月刊誌(げっかんし)が発表(はっぴょう)したコラムによると、世界(せかい)の人口(じんこう)データをより直接的(ちょくせつてき)に理解(りかい)しやすくするため、米國(べいこく)ウィスコンシン大學(だいがく
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    原子力げんしりょく発電所はつでんしょを運転うんてんすると「核かくのごみ」が出でます。
  • 貓が大好きなマタタビの葉 好きな理由がわかる
    貓ねこにマタタビの葉はをあげると、體からだでこするような特別とくべつな反応はんのうをします。日本語にほんごで「貓ねこにマタタビ」は、とても好すきな物ものを言いうときに使つかう言葉ことばです。巖手大學いわてだいがくなどの研究けんきゅうグループは、いちばん新あたらしい技術ぎじゅつを使つかってマタタビを調しらべました。
  • 簡単な日本語での診療方法を動畫で紹介 新型コロナ
    醫療いりょう機関きかんを受診じゅしんする機會きかいが増ふえる中なか、順天堂大學じゅんてんどうだいがくは、醫療いりょう従事者じゅうじしゃ向むけにわかりやすい簡単かんたんな日本語にほんごで診療しんりょうにあたる方法ほうほうを紹介しょうかいする動畫どうがを、30日にちからネットで公開こうかいしています。
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    荻窪の家に住んでいた頃のこと、嫁いだ娘ののこした部屋を第二の書斎にしている私は、今、朝の窓の日ざしに向っている。ふと蓮月尼の「おり立ちて若葉あらへば加茂川の岸のやなぎに鶯のなく」の情景を頭の中で描きながら、三十年前に會った京の松園女史の面影を眼に浮べている。 それは大正二年四、五月の交である。私は京都に遊んで、ひらぎ屋に泊って洛中洛外を巡覧した。
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  • 【広州】業務用システムのPMと営業を募集!経験問わず、やる気と成長意欲がある方を歓迎.
    業務用システム開発企業のTRE広州より、日系企業向け営業、PMを募集!経験問わず、やる気と成長意欲がある明るい方。<必要條件>日本語ネイティブまたは中國語ネイティブ語學:中國語と日本語が日常會話レベル(社內、顧客とのコミュニケーションで使用)・他人と協力して物事に取り組めること(素直さ・向上性・協調性を重視)・コミュニケーションスキルに自信があること・長く働いていただけること<次のような方からのご
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    りょこうができない子こどもたちの代かわりに、沖縄県おきなわけんの石垣島いしがきじまではぬいぐるみが旅行りょこうをしています。旅行りょこうをしているぬいぐるみの寫真しゃしんを見みて、子こどもたちに喜よろこんでほしいと考かんがえて、石垣島いしがきじまのガイドの男性だんせいが始はじめました。奈良県ならけんの中學生ちゅうがくせいの女おんなの子こは、豚ぶたのぬいぐるみ「ぶーちゃん」を石垣島いしがきじまに送おくりました。
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    「~さん」は男女を問わず使うことができます。ただし、やはり相手や時、場合によって呼び方を変える必要があります。この呼び方次第で、話す相手との上下関係が決まると言っても過言ではないのです。仕事上は特に上下関係に気を配らなければなりません。日本の會社では上司の名前を呼ぶ際には「~さん」ではなく、「~社長」、「~部長」、「~課長」のように會社の役職名をつけるのが普通です。
  • 賞味期限にまつわる中國語
    その代わり「製造年月日」がきっちりと記載されています。もう少し詳しく印字內容をチェックすると、「保質期 (bǎo zhì qī)」という項目があります。これは「賞味「期間」」を意味します。つまり、消費者が商品の「消費期限」を知りたい場合、製造年月日を起算として自分で計算する必要があるのです。
  • 大相撲 橫綱の白鵬が日本の國籍を取る
    白鵬はくほうが、日本にっぽんの國籍こくせきを取とりました。白鵬はくほうは、將來しょうらい力士りきしをやめたあと、若わかい力士りきしを育そだてる親方おやかたになりたいと考かんがえています。親方おやかたになるためには日本にっぽんの國籍こくせきが必要ひつようです。白鵬はくほうは「自分じぶんが生うまれたモンゴルを愛あいしているから、日本にっぽんも愛あいすることができます。