江戸か東京か

2021-02-18 慧澄子BAR

(長文)

私が子供の時に見たり聞いたりしたことを雑然とお話しようが、秩序も何もありませんよ。その上子供の時の事ですから、年代などは忘れてしまってる。元治慶応明治の初年から十五、六年までの間です。私が住っていた近くの、淺草から両國馬喰町ばくろちょう辺の事ですか――さようさね、何から話して好いか――見世物ですな、こういう時代があった。何でもかんでも大きいものが流行はやって、蔵前くらまえの八幡の境內に、大人形といって、海女あまの立姿の興行物があった。凡およそ十丈もあろうかと思うほどの、裸體の人形で、腰には赤の唐縮緬からちりめんの腰巻をさして下からだんだん海女の胎內に入るのです。入って見ると彼地此地あちこちに、十ヶ月の胎児の見世物がありましたよ。私は幾度も登ってよくその海女の眼や耳から、東京市中を眺ながめましたっけ。當時「蔵前の大人形さぞや裸で寒かろう」などいうのが流行った位でした。この大人形が當ったので、回向院えこういんで江の島の弁天か何かの開帳があった時に、回向院の地內に、朝比奈三郎の大人形が出來た。五丈ほどありまして、これは中へ入るのではなく、島臺しまだいが割れると、小人島の人形が出て踴るというような趣向でした。それから淺草の今パノラマのある辺あたりに、模型富士山が出來たり、芝浦にも富士が作られるという風に、大きいもの/\と目がけてた。可笑おかしかったのは、花時はなどきに向島むこうじまに高櫓たかやぐらを組んで、墨田の花を一目に見せようという計畫でしたが、これは餘り人が這入はいりませんでした。今の淺草の十二階などは、この大きいものの流行の最後に出來た遺物です。これは明治前でしたが、當時の両國橋の繁華といったら、大したもので、弁天の開帳の時などは、萬燈まんとうが夥おびただしく出て、朝詣あさまいりの有様ったらありませんでしたよ。松本喜三郎の西國三十三番観音の御利益ごりやくを人形にして、淺草で見世物にしたのなど流行った。何時いつだったか忘れたが、両國の川の中で、水神祭というのがあった。これには、の組仕事師中の泳ぎの名人の思付おもいつきで、六間ばかりの油紙で張った蛇體の中に火を燈ともし、蛇身の所々に棒が付いてあるのを持って立泳ぎをやる。見物がいくばくとも數知れず出たのでしたから、ちょっと見られぬ有様でして、終しまいには柳橋の芸者が、乙姫おとひめになってこの水神祭に出るという騒ぎでした。確か言問団子ことといだんごが隅田川で燈籠流とうろうながしをした後で、その趣向の変形したもののようでした。當時の両國は、江戸錦絵にしきえなどに殘っているように大したもので、當時今の両國公園になっている辺は西両國といって、ここに村右衛門という役者が芝居をしていた。私の思うのには、村右衛門が河原物かわらものといわれた役者の階級打破に先鞭せんべんを附けたものです。というのは、この村右衛門は初め歌舞伎役者でしたのが、一方からいえば墮落して、小屋ものとなって西両國の小屋掛こやがけで芝居をしていた。一方では真実の役者がそれぞれ立派に三座に拠よっていたが、西両國という眼抜きの地に村右衛門が立籠たてこもったので素破すばらしい大入おおいりです。これがその後一座を率いて、人形町の橫にあった中島座となりまた東両國の阪東三八の小屋、今の明治座の前身の千歳座のなお前身である喜昇座の根底を為なしたので、まず第一歌舞伎役者と小屋ものとの彼らの仲間內の階級を打ち破ったのが、この阪東(後改め)大村村右衛門でした。その外の見世物では、東両國の橋袂はしだもとには「蛇使」か「ヤレ突けそれ突け」があった。「蛇使」というのは蛇を首へ巻いたり、腕へ巻いたりするのです。「ヤレ突けそれ突け」というのは、――この時代の事ですから、今から考えると隨分思い切った亂暴な猥雑わいざつなものですが――小屋の表には後姿の女が裲襠しかけを著て、背を見せている。木戸番きどばんは聲を限りに木戸札を叩いて「ヤレ突けそれ突け八文じゃあ安いものじゃ」と怒鳴っている。八文払って入って見ると、看板の裲襠しかけを著けている女が腰をかけている、その傍かたわらには三尺ばかりの竹の棒の先さきが桃色の絹で包んであるのがある。「ヤレ突けそれ突け」というのは、その棒で突けというのです。亂暴なものだ。また最も流行ったのは油壺に胡麻油か何かを入れて、中に大判小判を沈ましてあって、いくばくか金を出して塗箸ぬりばしで大判小判を取上げるので、取上げる事が出來れば、大判小判が貰もらえるという興行物がありました。また戊辰ぼしん戦爭の後には、世の中が慘忍な事を好んだから、仕掛物しかけものと稱した怪談見世物が大流行で、小屋の內へ入ると薄暗くしてあって、人が俯向うつむいてる。見物が前を通ると仕掛けで首を上げる、怨うらめしそうな顔をして、片手には短刀を以もって咽喉のどを突いてる、血がポタポタ滴たれそうな仕掛になっている。この種のものは色々の際物きわもの――當時の出來事などが仕組まれてありました。が、私の記憶しているのでは、何でも心中ものが多かった。こんなのを薄暗い処を通って段々見て行くと、最後に人形が引抜ひきぬきになって、人間が人形の胴の內に入って目出たく踴って終はねになるというのが多かったようです。この怪談仕掛物の劇はげしいのになると真の闇やみの內からヌーと手が出て、見物の袖を摑つかんだり、蛇が下りて來て首筋へ觸ったりします。こんなのを通り抜けて出ることが出來れば、反物たんものを景物けいぶつに出すなどが大いに流行ったもので、怪談師の眼吉などいうのが最も名高かった。戦爭の後ですから慘忍な殺伐なものが流行り、人に喜ばれたので、芳年よしとしの絵に漆うるしや膠にかわで血の色を出して、見るからネバネバしているような血だらけのがある。この芳年の絵などが、當時の社會狀態の表徴でした。
 見世物はそれ位にして、今から考えると馬鹿々々しいようなのは、郵便ということが初めて出來た時は、官憲の仕事ではあり、官吏の権威の重々おもおもしかった時の事ですから、配達夫が一葉の端書はがきを持って「何の某なにがしとはその方どもの事か――」といったような體裁でしたよ。まだ江戸の町々には、木戸が殘ってあった頃で、この時分までは木戸を閉ささなかったのが、戦爭の前後は世の中が物騒なので、町々の木戸を閉したのでしたが、木戸番は番太郎といって木戸傍の小屋で、荒物や糊のりなど売っていたのが、御維新後番兵というものが出來て、番太郎が出世して番兵となって、木の棒を持って町々を巡廻し出して、やたらに威張り散し、大いに迷惑がられたものでしたが、これは暫時で廃されてしまった。その番兵の前からポリスというものがあって、これが邏卒らそつとなり、巡邏となり、巡査となったので、初めはポリスって原語で呼んでいた訳ですな。こういうように巡査が出來る前は世の中は亂妨らんぼうで新徴組しんちょうぐみだとか、龍虎隊りゅうこたいだとかいうのが亂妨をして、市中を荒らしたので、難儀の趣を訴えて、晝夜の見廻りが出來、その大取締が莊內の酒井左右衛門尉で、今の警視総監という処なのです。このポリスが出來るまでは、江戸中は無警察のようでした。今商家などに大戸の前の軒下に、格子の嵌はめてある家の殘っているのは、この時に格子を用心のために作ったので、それまでは軒下の格子などはなかったものだ。
 世の中がこんなに動亂を極めている明治元年の頃は、寄席などに行くものがない。ぺいぺい役者や、落語家やこの種の芸人が食うに困り、また士族などが商売を初める者が多く、皆々まず大道商人となって、馬喰町四丁內にギッシリと露店の道具屋が出ました。今考えると立派なものが夜店にあったものです。その大道商人の盛んに出たことは、こういうことで當時の夜店の様が察しられる。夕方に商人が出る時分に「おはよ/\」の蝋燭ろうそく屋の歌公というのが、薩摩さつま蝋燭を大道商人に売り歩いて、一廉ひとかどの儲もうけがあった位だということでした。「おはよ/\」とは、歌公が「おはよ/\の蝋燭で御座いかな」と節を附けて歌い、変な身ぶりで踴りながら売歩いたので、「おはよ/\の歌公」ッて馬喰町辺では有名な男で、「おはよ/\の――で御座いかな」という言葉が流行った位だ。
 売聲うりごえで今一つ明治前に名高かったのは、十軒店じっけんだなの治郎公というのが、稲荷鮨いなりずしを夜売り歩いた。この治郎公は爺でしたが、聲が馬鹿に好い、粋な喉のどでしたので大流行を極めた。この男の売聲というのは、初めに「十軒店の治郎公」とまず名乗りを上げて、次にそれは/\猥褻わいせつな歌を、何ともいえぬ好い喉で歌うのですが、歌は猥褻な露骨なもので、例を出すことも出來ないほどです。鮨売すしうりの粋な売聲では、例の江こはだの鮨売などは、生粋きっすいの江戸前でしたろう。この系統を引いてるものですが、治郎公のは聲が好いというだけです。この治郎公の息子か何かが、この間まで本石町ほんこくちょうの人形屋光月の傍に鮨屋を出していましたっけ。市區改正後はどうなりましたか。
 この時分、町を歩いて見てやたらに眼に付いて、商売家になければならぬように思われたのは、三泣車さんなきぐるまというのです。小僧が泣き、車力が泣き、車が泣くというので、三泣車といったので、車輪は極く小ちいさくして、轅ながえを両腋りょうわきの辺あたりに持って、押して行く車で、今でも田舎の呉服屋などで見受ける押車です。この車が大いに流行ったもので、三泣車がないと商家の體面にかかわるという位なのでした。それから明治三、四年までは、夏氷などいうものは滅多めったに飲まれない、町では「ひやっこい/\」といって、水を売ったものです。水道の水は生溫なまぬるいというので、掘井戸の水を売ったので、荷の前には、白玉と三盆さんぼん白砂糖とを出してある。今の氷屋のような荷です。それはズット昔からある水売りで、売子は白地の浴衣、水玉の藍模様あいもようかなんかで、十字の襷掛たすきがけ、荷の軒には風鈴が吊ってあって、チリン/\の間に「ひやっこい/\」という威勢の好いのです。砂糖のが文久ぶんきゅう一枚、白玉が二枚という価でした。まだ淺草橋には見附みつけがあって、人の立止るを許さない。ちょっとでも止ると「通れ」と怒鳴った頃で、その見附のズット手前に、治郎公(鮨やの治郎公ではない)という水売が名高かった。これは「ひやっこい/\」の水売で、処々にあった水茶屋みずぢゃやというのは別なもの、今の待合まちあいです。また貸席を兼ねたものです。當時水茶屋で名高かったのは、薬研堀やげんぼりの初鷹、仲通りの寒菊、両國では森本、馬喰町四丁目の松本、まだ沢山ありましたが、多くは廃業しましたね。
 この江戸と東京との過渡期の繁華は、前言ったように、両國が中心で、生馬いきうまの眼をも抜くといった面影は、今の東京よりは、當時の両國に見られました。両國でも本家の四ツ目屋のあった加賀屋橫町や虎橫町――薬種やくしゅ屋の虎屋の橫町の俗稱――今の有名な泥鰌どじょう屋の橫町辺が中心です。西両國、今の公園地の前の大川縁おおかわべりに、水茶屋が七軒ばかりもあった。この地尻に、長左衛門という寄席がありましたっけ。有名な羽衣はごろもせんべいも、加賀屋橫町にあったので、この辺はゴッタ返しのてんやわんやの騒さわぎでした。東両國では、あわ雪、西で五色茶漬は名代なだいでした。朝は青物の朝市がある。午ひるからは各種の露店が出る、銀流ぎんながし、矢場やば、賭博とばくがある、大道講釈やまめ蔵が出る――という有様で、その上狹い処に溢あふれかかった小便桶が並んであるなど、亂暴なものだ。また並び床といって、三十軒も床屋があって、鬢盥びんだらいを控えてやっているのは、江戸絵にある通りです。この辺の、のでん賭博というのは、數人寄って賽さいを転がしている鼻はなッ張ぱりが、田舎者を釣りよせては巻き上げるのですが、賭博場の景物には、皆春畫を並べてある。田舎者が春畫を見てては釣られるのです。この辺では屋臺店がまた盛んで、卯之花鮨からずしとか、おでんとか、何でも八文で後には百文になったです。この両國の雑踏の間に、下駄脫しや、羽織脫しがあった。踵かかとをちょっと突くものですから、足を上げて見ている間に、下駄をカッ払ったりする奴があった。それから露店のイカサマ道具屋の罪の深いやり方のには、こういうのがある。これはちょっと淋さびしい人通りのまばらな、深川の御船蔵前とか、淺草の本願寺の地內とかいう所へ、小さい菰座こもざを拡げて、珊瑚珠さんごじゅ、銀簪ぎんかん、銀煙管ぎんギセルなんかを、一つ二つずつ置いて、羊羹ようかん色した紋付もんつきを羽織って、ちょっと容體ようだいぶったのがチョコンと坐っている。女や田舎ものらが通りかかると、先に男がいくばくかに値をつけて、わざと立去ってしまうと、後で紋付のが「時が時ならこんな珠を二円や三円で売るのじゃないにアア/\」とか何とか述懐して、溜呼吸ためいきをついている。女客は立止って珠を見て、幾分かで買うと、イカサマ師はそのまま一つ処にはいない、という風に、維新の際の武家高家の零落流行に連れて、零落者と見せかけてのイカモノ師が多かったなどは、他の時代には見られぬ詐偽さぎ商人です。また「アラボシ」といって、新らしいものばかりの露店がある。これは性しょうが悪くて、客が立止って一度価を聞こうものなら、金輪際こんりんざい素通りの聞放しをさせない、袂たもとを握って客が値をつけるまで離さない。買うつもりで価を聞いたのだろうから、いくばくか値を附けろ、といったような剣幕で、二円も三円もとの雲価いいねを二十銭三十銭にも附けられないという処を見込んだ悪商人が多く「アラボシ」にあった。今夜店の植木屋などの、法外な事をいうのは、これらアラボシ商人の餘風なのでしょう。一體がこういう風に、江戸の人は田舎者を馬鹿に為切しきっていた。江戸ッ子でないものは人でないような扱いをしていたのは、一方からいうと、江戸が東京となって、地方人に蹂躙じゅうりんせられた、本來江戸児とは比較にもならない頓馬とんまな地方人などに、江戸を奪われたという敵愾心てきがいしんが、江戸ッ子の考えに瞑々めいめいの中うちにあったので、地方人を敵視するような気風もあったようだ。
 散髪ざんぱつになり立てなども面白かった。若い者は珍らしい一方で、散髪になりたくても、老人などの思惑を兼ねて、散髪の鬘かつらを髷まげの上に冠ったのなどがありますし、當時の床屋の表には、切った髷を幾いくつも吊してあったのは奇観だった。
 また一時七夕の飾物の笹が大流行で、その笹に大きいものを結び付けることが流行り、吹流しだとか、一間もあろうかと思う張子はりこの筆や、畳一畳敷ほどの西瓜の作つくりものなどを附け、竹では撓たわまって保てなくなると、屋の棟むねに飾ったなどの、法外に大きなのがあった。また凧たこの大きなのが流行り、十三枚十五枚などがある。揚あげるのは淺草とか、夜鷹よたかの出た大根河岸だいこがしなどでした。秩父屋ちちぶやというのが凧の大問屋で、後に観音の市十七、八の両日は、大凧を屋の棟に飾った。この秩父屋が初めて形物の凧を作って、西洋に輸出したのです。この店は馬喰町四丁目でしたが、後には小伝馬町こでんまちょうへ引移ひきうつして、飾提燈かざりちょうちん即ち盆提燈や鬼燈提燈ほおずきちょうちんを造った。秩父屋と共に、凧の大問屋は廄橋うまやばしの、これもやはり馬喰町三丁目にいた能登屋で、この店は凧の唸うなりから考えた凧が流行らなくなると、鯨屋になって、今でも鯨屋をしています。
 それから東京市の街燈を請負うけおって、初めて設けたのは、例の吉原の金瓶大黒の松本でした。燈はランプで、底の方の拡がった葉鉄ぶりきの四角なのでした。また今パールとか何とかいって、白粉おしろい下のような美顔水びがんすいというような化粧の水が沢山ありますが、昔では例の式亭三馬しきていさんばが作った「江戸の水」があるばかりなのが、明治になって早くこの種のものを売出したのが「小町水」で、それからこれはずっと後の話ですが、小川町の翁屋という薬種屋の主人で安川という人があって、硯友社けんゆうしゃの紅葉さんなんかと友人で、硯友社連中の文士芝居ぶんししばいに、ドロドロの火薬係をやった人でして、その化粧水をポマドンヌールと命なづけていた。どういう意味か珍な名のものだ。とにかく売れたものでしたね。この翁屋の主人は、紅葉さんなんかと友人で、文墨ぶんぼくの交まじわりがある位で、ちょっと変った面白い人で、第三回の博覧會の時でしたかに、會場內の厠かわやの下掃除を引受けて、御手前の防臭剤かなんかを撒まかしていましたが、終には防臭剤を博覧會へ出かけちゃ、自分で撒いていたので可笑おかしかった。その人も故人になったそうですが、若くって惜しいことでしたね。

(明治四十二年八月『趣味』第四巻第八號)

底本:「梵雲庵雑話」巖波文庫、巖波書店
   1999(平成11)年8月18日第1刷発行
初出:「趣味 第四巻第八號」
   1909(明治42)年8月
※底本は、物を數える際や地名などに用いる「ヶ」(區點番號5-86)を、大振りにつくっています。

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