併し徑二尺にもおよぶ大捏缽であるし、持ちにくい形でもあり、重さもかなりあって、持ち帰るのは一苦労であった。おまけに東寺から、私の住んでいた吉田山までは、京都の端から端と雲ってもよく、電車に持ちこめば嵩が大きく、さりとてその頃はタクシーは稀で、それに家までの賃金は、この缽の代より高いのである。隨分くたびれて家に戻ったことを今も想い起す。だが床にそれを置いて眺め入った時、その立派さは私の疲れを忘れさせるのに充分であった。誰もろくに見てやらないこの種の捏缽は、現存するものいたく少く、二十數年後の今日と雖も、私は僅か四、五枚の例より知らない。そのうちの一枚を私は鹿児島で獲たから、民芸館には今二枚所有していることになる。倉敷民芸館にも一枚絶品がある。
但是這個直徑大約二尺的大捏缽,形狀特別難拿,而且特別重,拿回去真的很累啊,可以送貨從東寺到我住的吉田山,京都的一頭到另一頭,用電車拿體積太大,那個時候計程車還比較珍惜,到我家的價錢,比這個缽還貴,現在想起來那時候到家真的累壞了,但是從地板看到這個物品的時候,那股疲勞馬上就忘了,這種捏缽現存特別少,二十多年我只看到過4,5件,其中一個是我從鹿兒島買到的,現在二個都在民藝館,倉敷民藝館還有一件珍品。
いろいろ調べた結果、この捏缽は肥前の國庭木の産で、親しくその古窯跡を訪ねてその出所を知ることが出來た。作られたのは徳川中期と考えられる。
經過各種研究,這個東西出自肥前國庭木,從古窯的痕跡判斷出來的,造出來的時間可能是德川中期。
ついでであるから述べておきたいが、同じく大捏缽で、白絵掛の上に、松の大木を雄渾な筆致で描いたのがある。又明らかに同じ系統の窯で水甕や徳利に松絵を描いたものが沢山現れた。この松絵の大捏缽を私が最初見初めたのは、所もあろうに信州小諸の道具屋であった。程なく水甕も求めたが、最初はどこの窯のものか見當もつかなかった。昭和の初め頃は陶磁史の専門家の知識も甚だ限られたもので、誰に聞いても知っている人がなかった。恐らく越中瀬戸だと説明されたくらいだ。
還有要說的是,在大捏缽的白色上面畫著壯麗的松樹,能證明的是一個系統的窯裡出現過大量的水壺和酒壺都是這個松樹圖,這個松樹圖的大捏缽我第一次見是信州小諸的工具店裡,不久想去尋找水壺,但是在那個窯裡製作出來的卻找不到,
最初昭和的陶瓷史的專家知識也是有限,問誰誰也不知道,恐怕只有越中瀨戶能說明吧。