【有聲日語】《京都の朝市》柳 宗悅

2021-02-20 聲優日語

私は大正の終りから昭和の八年まで足掛九年も京都に住んだが、今から想うと、もっとよくこの舊都やその周辺の文化の跡を見ておくべきであった。由緒のある社寺はもとよりだが、近辺の聚落やその生活などにも更に親しむべきであった。それに見落したのはこの古い都に今も數々伝わる手工芸の工房である。それを遍ねく訪ねて、技術の工程や出來上る品物を、よく見屆けておくべきであった。工芸の種目は驚くほどの數に上ろう。この點では京都にまさる場所は他にあるまい。古く遠い伝統が今もつづくからである。その幾許かはもとより見て廻ったが、もっと充分に私の見聞を広めておくべきであった。今から思い返して惜しい気がしてならぬ。併しかし徒いたずらに怠っていたわけではない。京都に在住の間、私の心をいたくそそったものの一つは朝あさ市いちであって、私は中々勉強した。これには河井寛次郎が先達であった。

我在從大正結束和昭和八年為止在京都生活九年,現在想起來,更加想看看舊都和周圍的文化,來源於寺院,附近的聚集村落那個生活感覺更親近,還有忽略了古都現在還在傳承的手工藝的工房,去那邊轉會發現技術和工藝精良的商品,工藝的種類多的讓人吃驚,這點之後京都有別的地方大概比不上的,從古代傳下來的傳統延續至今,想去更多的瀏覽增加自己的見識,現在想起來就有一種很可惜的感覺。但是並不是單純的無聊的怠慢時間,在京都住的日子裡,能勾起我心裡感覺的一個就是早市,讓我從中得到學習的是河井寛次郎這個前輩。

朝市というのは月のうちの日と所とをきめて、少くとも朝の六時頃から立つ市なのである。上、古ふる著ぎから、下、櫛くしの欠けたのまで、何でもかでも並べる市である。それが一ヶ所ではない。弘法の市、天神の市、壇王の市、淡島の市、北浜の市という風に、日と所とを異にして立つのである。何でも、それ等の朝市に凡て出掛けるとすると、大小合せ、驚く勿れ、一ヶ月のうち二十日餘りもあるそうである。中で最も大きいのは月の二十一日にかかる弘法の市、つまり東寺の市で、広い寺の境內が、所せまきまでに物で埋まる。これと雙壁をなすのが毎月二十五日の天神の朝市で、つまり北野天神の境內境外にぎっしり立つ大きな市である。

早市是每個月的日期和地點都決定的,至少早上6點就要站在市場裡,從上到下穿著舊衣服,什麼都有的市場,它不止一個地方,弘法市場,天神市場,壇王市場,淡島市場,北濱市場像這種感覺,時間和地點都不同的站立著,不管怎麼樣出門去早市時,大小合適的都不免讓人吃驚,好像一個月中有20多天都有早市,其中最大的就是每月的21號的弘法早市,總之在東寺市一個很大的寺廟裡,擺放特別多的東西,被稱為雙壁的每月25號的天神早市,就是北野天神境內境外滿滿的人山人海的大市場。

何もかも、けじめなく売る是等の朝市は、私共には大いに魅力があった。尤も私が始めてその市のことを知ったのは、漸く大正の終り頃であるから、もうよい時期は去って了った後だとも雲える。大正の始めであったら、更に又明治に遡ったら、品物はどんなに素晴らしかったかと思える。時代が降るにつれて、物の質は落ちてゆく、「この頃は全く何も出んようになりました」と私共はよく商人から聞かされたものである。実際そうであるに違いない。

不管怎麼說沒有區別的販賣,對於我們是早市最大的魅力所在,正確的說我開始知道早市是在大正結束的時候,聽說好的時期已經過去了,從大正開始時候,甚至追溯到明治,東西都是特別的好,隨著時代的改變,物品的質量也會變差,那個時候經常聽商人說現在我已經把壓箱底的都拿出來了,實際也確實是這樣。

併しそれでも出掛ければ、何か一物は手に入った。もともとこの朝市には五時から六時頃の間に、手車で品物が運ばれてくるのだが、車が止まるのを待ち受けているのは小道具屋連中で、めぼしいものが先ずぬかれて了う。それに六時頃出かけるのは、そう楽なことではなく、私共が行くのは、早くて七―八時頃になって了う。この市を目がけて集る都民の數も大したもので、天気でもよいと、時には身動きも出來ぬ盛況である。それ故、私共はどうしても二番手、三番手の買手になって了う。

但是只要出門的話,就會買一樣東西回去,原來這個早市是早上5點到6點的時候,用小推車把物品運過來,但是工具商店的那幫人很早就停車等候了,出色的物品提前拿下了,六點多出門的話找好的東西已經並不簡單了,我們去得時候是早上7,8點的時候的話,這個早市聚集的京都市民數量已經很讓人吃驚了,天氣好的時候,有時會擠到身體都動不了,因為這個理由,我們買到的東西基本都是二手的或是三手的商品。

併し有難いことに、道具屋と私共の眼のつけ所に、中々喰い違いがあるのである。だから後から出掛ける私達にも、目こぼしの品が相當に恵まれるわけである。人々が注意を払わず、市価がてんでない品の中に、色々よいものが現れてくる。昔ほどの朝市では決してない筈なのだが、それでも見過ごして了うには、勿體ない猟場であった。それで雨が降らなければ、大きな市には、まめに足を運んだ

但是難能可貴的是,工具店和我們著眼的物品是有不同的,後出門的我們,也是能找到不錯的商品,人們不注意,和市價不同的各種好的商品會出現,以前的早市絕不是這樣,即使看走眼了也只能覺得可惜的獵場,只要不下雨,經常會去大的早市。

売手の大部分は婆さんであった。好個の內職になるに違いない。大體晝頃で市は終って了うから、買手も早くから集ってくる。度々吾々も出かけるので、しまいには婆さん達と顔なじみになって、吾々のために物をとっておいてくれたりするようになった。

賣方大部分都是老婆婆,是個不錯的副業,大約快中午的時候早市就收攤了,買主門也很早就聚集,因為經常去,和老婆婆都熟悉,好像為了我們,把想要的東西都留下來似的。

ここで一寸述べておきたいが、「下げ手て」とか「下手物」とかいう俗語は、実に是等の婆さん達の口から始めて聞いた言葉なのである。つまり私達の買う品物の大部分は、婆さん達に雲わせると、「下手物」であった。始めて耳にしたその言葉が面白く、又「上じょう手て物もの」に対して用いると、何かはっきりした性質の區別も示されるので、之が縁となり、私達もこの言葉を用いることに便利を感じた。「下手」とは、ごく當り前の安ものの性質を示し、従って民器とか雑器とかいう言葉に當る。恐らく文字でこの俗語を書き、その性質を述べたのは私達が最初ではなかったろうか。大正十五年九月発行の「越後タイムス」に私は「下手ものの美」と題して始めて筆をとった。

在這裡簡短的訴說,粗糙的物品這句俗語,是從老婆婆他們口裡傳出的詞句,總之我們買的物品大部門在老婆婆的口中就是粗糙的物品,第一次聽說的時候還覺得挺有意思的,對於好的物品好像有很清楚的性質的區分,之或是緣什麼的,我們感覺到這個語言應用的便利,下手的意思是非常便宜的物品,用於描述民器或是雜器什麼的,恐怕文字是用俗語寫出來的,最初訴說個性的並不是我們吧,在大正15年9月發行的越後時間中我開始以粗糙物品的美為題目開始了執筆。

併しこの俗語は、語調に強いところがあるせいか、また猟奇的な調子を感ずるのか、伝播はとても早く、年を追って広まり、今では用いぬ人がないまでに至り、辭書すら之を載せざるを得ないまでになった。恐らく最初之を掲げたのは、新村出博士編纂の「辭苑」であったかと思う。

但是這個俗語因為語調的強的關係還有獵奇的感覺,傳播特別快,能追逐的年份很久,到現在還麼有人用了,甚至字典都記載,估計最早應該揭示的應該是新村出博士的辭苑。

餘談になったが、この朝市で私共が見出して驚いたのは、俗に「丹たん波ば布」と呼ぶもので、婆さん達は短く、「丹波」と雲っていた。後でよく分ったが、之は丹波國佐治地方で出來る木綿もので、土地では「縞しま貫ぬき」と呼ばれ、緯糸に染めない白の玉糸を、所々に入れるのが特色である。私共が驚いたのは、その色の渋さ、織の溫かさ、縞の美しさであって、もとより糸は手紡、色は草木染である。尤もそれ以外になかった時期である。餘り味が豊かで、まるで茶人達が特別に注文して作らせたと思われるほどであった。始めて見たこの布に、大いに心を惹かれ、見かける毎にのがさず買い漁った。

說一下題外話,我們找到讓我們吃驚的俗稱丹波布的物品,婆婆們身體短小,被稱為丹波的原因後來我才知道,這是丹波國佐治的地方產出的木棉,地方叫做高貫,緯線沒有染的白色線,條染的特色,顏色樸素,纖維富足,條紋的美麗,這個線是手織的,顏色是草木中提取的,別的做法從來沒有過的,感覺特別豐富,像是精通茶道的人們特別定製的,剛開始看這個布的時候,被它的大的感覺所吸引,每次去都會去找尋它,

この丹波布が京都の朝市に出廻るのは、京阪地方の人々が之を好んで布団表に用いたからである。時には丹たん前ぜんもあったが、多くは掛布団や敷布団であった。それが今は流行おくれとなり、使いふるした古著となって、市に出て來るのである。幕末から明治の始め頃が最も盛に織られたと雲われる。糸味染味が無類によく、若しこの布が早く知れ渡っていたら、茶人などは好んで袋ものや仕服にでも用いたであろう。中で特に蚊張のために織ったものは、殘り糸などを用いてあって、やたら縞の味いが極めて美しいのである。

這丹波布出自京都的早市,京都大阪的人喜歡用這個布做被褥的表面,有時候還用於做穿的衣服,大多數還是用於做被子和褥子,現在已經不流行了,只能用於縫補舊衣服,剛在市場出現的時候,是幕府末期和明治初期是紡織最繁盛的時代,線和染色都無與倫比,可以用於愛茶人喜歡的布袋和自己的衣服,這之中有用剩下的線做蚊帳,看起來線條是那麼的優美.

私は之で幾本かの大津絵を表具したことがある。大変によく似合った。この布の評判は吾々の間では忽ち伝播して、売手の婆さん連も、吾々の為に特に集めるようになった。今民芸館に所蔵され、いつも陳列されているのは、凡てその頃の朝市の獲物なのである。將來日本の綿布史を編む人は、この布の存在とその価値とを忘れてはなるまい。新名物裂と讃えられる日も來るのではあるまいか

我用了幾根裝裱繪畫特別的適合,這個布好評是從我們這裡傳播的,賣家的老婆婆們為了我們專門收集這個布,現在在民藝館所陳列的都是那個時候淘來的,將來如果編輯日本織布編年史,這個布的價值不會被忘記,因為新的貿易品被稱讚的那一天應該會到來吧。

因に雲う。半世紀以上も廃れていたこの布は、近時丹波國氷上郡佐治近くの大燈寺を中心に、復興が企てられ、再び糸を紡ぐ者、染める者、織る者が力を協せるに至った。もとよりこの朝市で獲たものは丹波布ばかりではない。私自身が著たい著物も色々よい品が手に入った。新品よりも更に丈夫で、遙かにもののよい品が、いくらもあった。三十年後の今日でもまだ使っているのがある。全く質のよさの恵みである。或は織手の心根の恵みという方が、更に至當なのかも知れぬ。

 說起來,半個世紀以上被廢止的布,最近丹波國冰上郡佐治附近的大燈寺為中心,企圖再度復興,聯繫紡織者,染料,和織布的人希望大家一起合作。這個早市獲得的布不知丹波布,我本身穿的衣服的各種各樣的好商品都買到過,比起新的更加結實,而且更加好的品質,不管多久,三十年後的今天我還在使用,全因為品質的出眾,說的更妥當的是因為織布的人的用心。

併し、こんな著物ばかりではない。私は沢山の裂織や、屑糸織などを買い集めた。それが汚れたままで売られているので、家に持って帰ると、きたないと雲って家內に大いに嫌われた。どんな病人の使ったものだか知れないという。一理あって、中々臭いにおいに悩まされることもあった。醫者の吉田璋也君が心配して、全部消毒の強制執行に及んで、家庭の紛ふん擾じょうも、めでたくけりがついたことがある。是等の布類も、今は全部民芸館に納めてある。

但是並不只是穿的衣服,我把澤山裂織和屑線織都買回來收集,因為買回來是髒兮兮的,拿回家,被潔癖的老婆說太髒了,什麼病人使用過也是有可能的,確實說的也有道理,而且有很大的臭味也讓人很煩惱,醫生吉田璋也也是很擔心,強制的把所有布都消毒,甚至因為它們產生過家庭紛爭,值得高興的是,這些布現在都被民藝館收藏了。

朝市のこととて、何でもかでも売るのであるから、もとより布類ばかりではなく、焼物も塗物も、金物も、木や竹の細工も、心を惹くものが色々現れた。安ものばかりであるのは言うを俁またない。私はこの朝市のお蔭で、一層丹波の焼物にも親しむことが出來た。昔に比べ、此頃は面白いものが、ずっと減ったと誰も話すが、それでも朝市行は吾々の心を誘った。予期もしないものが現れて吾々を待っているからである。

說起早市什麼東西都賣的,不只是布類,陶瓷器,漆器,金屬器具,木製和竹製的工藝品,各種惹人心動的顏色出現,經常聽人說沒有比這裡更便宜的啦,我也是因為早市的原因,找到喜愛的一層丹波的陶瓷器,比起以前,現在有趣的物品少了很多,即使是這樣,我們的內心也會被早市所吸引,不由自主的想去,也許出現意想不到的東西在等著我們。

大體こういう朝市には、何も名のある立派なものは出てこない。だから評判などに便たよってものを見る要もない。こういう所こそ、誰もに自由な選択を求めているのである。ここが大いに魅力のある所であろう。こんな場所では知識などは餘り役に立たぬ。それだけに直観が遠慮なく活躍せねばならぬ。之が働くと、物の方でも悅んで近寄ってくるのである。

說起早市,這裡沒出什麼特別有名的東西,或是評價不錯值得看的也是沒有,這個地方,無論誰都可以自由選擇,就是這個地方的最大魅力,這個地方知識並不是特別有用,但是直覺必須要活躍,所以工作的還是買東西的都很高興的來到這邊。

よく民芸館に飾られる全緑釉、指掻紋の大おお捏こね缽ばちがあるが、之も朝市での収獲であった。その日私は時間がおくれて九時頃に出かけた。あの弘法の市日で、広い境內に所せまきまでに、品物が拡げてあった。時間は既におそく、帰りがけの人も多い頃であったが、ふと見ると筵むしろの上にこの大捏缽が燦然と輝いているではないか。驚いたのはこの私である。早速に値を聞くと、たった二円であった。昭和四年頃のことである。私は有無なく買取って、荒縄で縛ってもらった。

在民藝館做裝飾的全綠釉和指型紋路的大捏缽,就是在早市收穫的,那天我有點晚9點出得門,在弘法早市上,場地特別巨大,東西也特別多,到的時間比較晚,往回走的人已經很多了,突然我看見在草蓆上大捏缽在閃耀著,吃驚的我趕快問價格,才2塊,那是昭和四年的時候,我沒多說直接買了,用粗繩綁著拿走了。

おかしなことに、この日何千という人々が朝早くからつめかけ、とくに小道具屋の連中は、鵜の目鷹の目で、品物を漁っているのである。それなのに、こんな大きな缽、こんなにも見事な、そうして珍らしい品物を、振り向きもしないとは、どういうわけか。それも言い値が二円なのである。気の毒と雲っていいのか。品物は地面の上に広げられた筵の上に、粗末に置いてあるままである。私は勿體ない想いで、飛びつくように買った。

奇怪的是,這天有幾千人很早就來了,特別是工具店那幫人,目光敏銳的尋找著物品,就這樣這麼大的缽,這麼漂亮珍惜的物品,沒人理睬,話說回來,這個價值才兩元,真是可憐,東西在廣闊的蓆子上,像破爛一樣放置,我覺得太可惜了,直接馬上買走了。

併し徑二尺にもおよぶ大捏缽であるし、持ちにくい形でもあり、重さもかなりあって、持ち帰るのは一苦労であった。おまけに東寺から、私の住んでいた吉田山までは、京都の端から端と雲ってもよく、電車に持ちこめば嵩が大きく、さりとてその頃はタクシーは稀で、それに家までの賃金は、この缽の代より高いのである。隨分くたびれて家に戻ったことを今も想い起す。だが床にそれを置いて眺め入った時、その立派さは私の疲れを忘れさせるのに充分であった。誰もろくに見てやらないこの種の捏缽は、現存するものいたく少く、二十數年後の今日と雖も、私は僅か四、五枚の例より知らない。そのうちの一枚を私は鹿児島で獲たから、民芸館には今二枚所有していることになる。倉敷民芸館にも一枚絶品がある。

但是這個直徑大約二尺的大捏缽,形狀特別難拿,而且特別重,拿回去真的很累啊,可以送貨從東寺到我住的吉田山,京都的一頭到另一頭,用電車拿體積太大,那個時候計程車還比較珍惜,到我家的價錢,比這個缽還貴,現在想起來那時候到家真的累壞了,但是從地板看到這個物品的時候,那股疲勞馬上就忘了,這種捏缽現存特別少,二十多年我只看到過4,5件,其中一個是我從鹿兒島買到的,現在二個都在民藝館,倉敷民藝館還有一件珍品。

いろいろ調べた結果、この捏缽は肥前の國庭木の産で、親しくその古窯跡を訪ねてその出所を知ることが出來た。作られたのは徳川中期と考えられる。ついでであるから述べておきたいが、同じく大捏缽で、白絵掛の上に、松の大木を雄渾な筆致で描いたのがある。又明らかに同じ系統の窯で水甕や徳利に松絵を描いたものが沢山現れた。この松絵の大捏缽を私が最初見初めたのは、所もあろうに信州小諸の道具屋であった。程なく水甕も求めたが、最初はどこの窯のものか見當もつかなかった。昭和の初め頃は陶磁史の専門家の知識も甚だ限られたもので、誰に聞いても知っている人がなかった。恐らく越中瀬戸だと説明されたくらいだ。

經過各種研究,這個東西出自肥前國庭木,從古窯的痕跡判斷出來的,造出來的時間可能是德川中期。還有要說的是,在大捏缽的白色上面畫著壯麗的松樹,能證明的是一個系統的窯裡出現過大量的水壺和酒壺都是這個松樹圖,這個松樹圖的大捏缽我第一次見是信州小諸的工具店裡,不久想去尋找水壺,但是在那個窯裡製作出來的卻找不到,最初昭和的陶瓷史的專家知識也是有限,問誰誰也不知道,恐怕只有越中瀨戶能說明吧。

私が始めてこの大捏缽を「大調和」誌上に紹介したのは昭和三年正月號であるが、その頃もまだ窯が見出されず、只九州の産という見當がほぼついたくらいである。民窯のこと故、誰にもよく知られていないのである。

我把這個大捏缽登上了昭和三年新年的大調和雜誌上,那個時候還是沒找到窯,只知道是九州產的,因為是民窯的關係,誰也不太清楚。

昭和三年の中頃であったか、始めて筑後二川でこの種の缽や甕が作られたことが分って來た。私はその報告を「工芸の道」の口絵解説に記した。之が縁となって、この種の焼物を皆世間では「二川」と呼ぶに至った。併し段々九州に於ける古窯跡の発掘が進むにつれ、二川より更に前に弓野あたりでも焼かれ、伝統を遡れば更に古く、何も二川のみでないことが分明になった。只二川がこの種の焼物を作った最後の窯場なのである。當時この捏缽は、各家庭の必需品として、肥前一帯に隨分方々で焼かれたものと思える。前述の庭木や、又小田志なども、広い意味で同じ流れの窯場と雲えよう。

昭和三年的中旬,我才知道開始在筑後二川這個缽和瓶被作出來的,這個報告我在工藝的道路中有插圖和解說,這個緣由,這種燒制的物品被人叫做二川,但是九州古窯的發掘進行,發現比起二川在弓野附近也要有燒制跡象,甚至傳統可以追溯更久遠,古窯場不止二川一處這是我們知道的,但二川這個窯場是最後的窯場,那個時候這種捏缽是家庭的必要的物品,在肥前一帶有很多這種瓷器,前面敘述的庭木和小田志等,存在很多意義的窯場傳達給世人。

大體捏缽には松絵が多いが、品物が集るにつれ、梅とか竹とか蘭とか巖山とか、色々の紋様が試みられたことが分った。今でこそ多少の経験や知識が得られて、ほぼその全貌をうかがえるが、ここまで達するのには遅々とした歩みであった。併し日本の民窯は極めて數も多く、分布の區域も広く、その興廃が常ならぬのであるから、実際今後も何が現れるか、予想もつかぬ。それで或意昧では、こういう窯場のことが詳しくなればなるほど、何もはっきりと斷定が出來ぬのが実狀である。日本の民窯は宛ら迷園の如くだとも雲えよう。歴史家は途方に暮れざるを得ぬ。

多數的缽是松樹的,隨著物品收集的增多,梅,竹,蘭,巖石各種樣式也被製造過,現在多少得到了一些經驗和知識,想知道全貌的話,還要繼續前進才行,但是日本的民窯特別的多,分布範圍特別廣泛,這個產業的興盛與衰敗是常態,到現在為止到底出現過多少窯場是想像不到的,按這樣分析,窯場的具體情況不知道是無法清楚的斷定出狀況的,日本的民窯如同迷宮,歷史學家也會迷茫吧。

話は別だがこんな朝市は東京には見かけぬ。少くとも京都のような著しいのはない。世田ヶ谷のぼろ市が有名だが、毎月は立たぬし、品物の変化は少い。銀座の夜店が客を引いたが、之も跡を斷つに至った。京都の朝市に匹敵するのは、北京の泥棒市、巴裡の蚤の市、倫敦のカルドニアン・マーケット等、何れも興味津々たるものである。こういう市は、とりすました骨董商の店などとは凡そ違って、訪ねる方も気楽だし、又選択も自在だし、値らしい値もないこととて、掘出しの興味が甚だ多い。ここが一つの魅力で、実際何が現れるか見當もつかぬ。だからここでは誰もの眼が主人で、何ものにも掣肘を受けぬ。未踏の猟場の如きもので、相場以前の世界なのである。こういう世界こそ私のような者には、何にも増して有難いのである。有名でないもので、いとも素晴らしいものが、勿體もつけず平気で現れてくるからである。

換個話題,東京的早市也是見識過的,至少沒京都那樣著名,世田谷的舊貨早市很有名,每個月都回去看一看,物品變化很少,銀座夜店拉客的倒是很多,之後就不再去了,能與京都早市匹敵的之後,北京的舊貨早市,巴裡的舊貨市場,和倫敦的市場等,各種津津有味的東西,這種市場和道貌岸然的古董店是不同的,去那邊特別輕鬆,而且自在的選擇,找出價值被低估的物品是這個魅力的所在,到底會出現什麼,這裡也沒人幹涉你,像是未踏足的獵場,行情定價前的世界,這個世界想我這樣的人能增加的的話是很歡迎的,不是有名的物品,但是,是最棒的物品,不要擺架子,冷靜的去發現它。

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    今天,就來帶大家來看看位於京都、融傳統與現代為一體的寶藏學校——京都精華大學。京都精華大學(京都精華大學),是建立於京都府京都市左京區巖倉木野町的一所藝術類高等學府,於1968年創辦,簡稱精華大或精大。與京都市立藝術大學、京都藝術大學(原京都造形大學)、京都嵯峨藝術大學、成安造形大學並稱為「京都五藝大」,可以說是是日本頂級藝術學校之一了。