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お近くに國語辭典があったら、「さみしい」という語を引いていただきたい。いかがであろうか。大方の辭典は「さびしい」を見よとなっているのではなかろうか。
大部分日語詞典裡解釋「さみしい」這個詞時都會寫上:參考「さびしい」。
だが、「さみしい」と「さびしい」は本當に同じなのだろうか、というのが今回の話題である。
但是,「さみしい」和「さびしい」真的是相同的意思嗎?
『日本國語大辭典』によれば「さみしい」「さびしい」の関係は以下のとおりとなる。
通過查詢『日本國語大辭典』,可以得知「さみしい」和「さびしい」的關係如下。
上代の「さぶし」が平安時代に「さびし」となり、それがさらに変化した語。近世以降「さびし」「さみし」は並んで用いられ、のち「さむしい」「さぶしい」の形もみられる。(「さみしい」の語誌)
古代的「さぶし」在平安時代變成了「さびし」,「さびし」再演變成「さみしい」。近代以後「さびし」和「さみし」被並列使用,之後也存在「さむしい」和「さぶしい」的形式。(「さみしい」的語志)
日本語ではバ行音とマ行音の交替はよく見られる現象で(たとえば「けぶり→けむり」など)、「さびしい」→「さみしい」もそれで説明ができる。
因為在日語中,バ行發音經常會和マ行發音發生替換(例如:「けぶり→けむり」等),所以「さびしい」→「さみしい」也是很自然的變化。
また、この語を漢字で書くとすると「寂しい」か「淋しい」であろうが、常用漢字表には「寂」しか載っていない。しかも訓で示されているのは「さびしい」だけなのである。つまり常用漢字表ではさびしいかな、「さみしい」は無視されてしまったわけである。
另外,雖然平時我們把這個詞用漢字寫成「寂しい」或者「淋しい」,但在常用漢字表中只寫著「寂」這一個字。而且用訓讀表示的只有「さびしい」。也就是說常用漢語表中完全無視了「さみしい」這個詞。
だが、NHKは「さみしい」の存在もしっかり認めていて、「〔サビシイ〕〔サミシイ〕両用の読みがある」(『ことばのハンドブック第2版』)として、優先順位は設けていない。
不過,NHK是承認「さみしい」這個詞的,在『語言的手冊第2版』中寫著:「寂しい」有〔サビシイ〕和〔サミシイ〕兩種讀法。不設置優先順序。
ではどこが異なるかというと、たとえば「ふところがさびしい」「さびしい山道」と言うときに「さみしい」を使う人はあまり多くないであろう。また、「さみしい」に主観的、詩的なニュアンスを感じる人も多いのではなかろうか。発生から言えば「さびしい」「さみしい」は同義と扱って間違いないであろうが、微妙なニュアンスの違いはこのように存在するのである。
那麼兩個詞的不同之處在哪裡呢?例如說到「手頭寂寞(空虛)」「寂靜的山道」時,很少有人會使用「さみしい」吧。大部分人都認為「さみしい」帶有主觀的、富含詩意的語感。雖然「さびしい」和「さみしい」的起源是一樣的,但兩者之間存在這樣的微妙語感區別。