「聞く、話す、読む、書く、大學で一番必要な技能は何か」とは私がよく生徒に問いかけていた質問です。
結局、一人前の大學生としてこの四つ技能はどれも欠かせないものだという意地悪で聞いたのもありますが、「書く」ことだと答える者があまりにも少ない事実に正直、かなり麵食らった。何せ、大學では、宿題もちろん、メール、レポート、プレゼン、何より研究を集大成した論文の作成など、どれも書く力、しかも高度な論理的思考力をもって文章を作成する能力を必要とするはずです。にもかかわらず、物書きするスキルの育成は學習者たちに、あまつさえ一部の教育者からも何かにつけ遠ざけられているのが昨今の中國國內における日本語教育の現狀と言えましょう。
認めたくはありませんが、大學受験、就職活動、高度人材資格の申請まで、ほとんどあらゆる場面で日本語力を証明するものになる「日本語能力試験」にレベルを問わずに記述問題がなく全問選択式になっていることがその書くことへの無関心に拍車をかけているとしか思えません。
ところで、このごろつくづく思うことがあります。日本語だけではなく、実は私たちの母語についても同じことが言えるではないかしょうか。
中國語を當然のように使っている私たちは日常的なやりとり、SNSへの書き込み、業務上で必要最低限の文章以外、日記ですらろくに書かない人が少なからずいるはずです。なぜでしょう?考えてみてください。「話が長くなっちゃうと嫌気がさすから、3行にまとめて話せ。いや、畫像のほうが分かりやすい。動畫も3倍速で再生すれば同じ時間で3本見れる。」という今の時代を生きる人の姿は想像に難くないはずです。常に情報に飢えているゆえに手間の省ける斷片的か情報を手に入れようとするのは甚だ皮肉としか言えません。その上、まるで話が複雑だと売れないそんな國內市場に応えるように、低コストで大量生産された分かりやすさNO.1を掲げるエンターテインメントが間違いなくその歪んだ意識を加速させています。
その先に何があるのか私には分かりませんが、情報は所詮命のないもので、それを分析・処理する者の人知によって初めて価値が見出されるというのに、莫大な情報の受容體になって、その処理が追いつかなくなる人々は本來わがために役立てるべき情報に飲み込まれて、気づいたらもう集めるためだけに情報を集めているというのはあべこべではまりませんか。それともこれこそ時代とともに進化するということなのでしょうか。ものを考える餘裕がなければ思考なんか捨ててひたすら情報の容器になればいいというのが進化なら私はやめます。なぜなら、ものを考える力を捨てるのは人間そのものを諦めることを意味するからです。なのに、こうやって話している今でも自分も含めて私たちからこの人間として當たり前の能力をインターネット上に蔓延るポプカルチャーによって奪われつつあるとひしひし感じています。
幸い、私にはちゃんと対抗する手段があって、それが書くことです。會話ならいくら話が下手でも相手の解釈次第でインフォメーションギャップが埋まるかもしれませんが、文字はそういうごまかしがきかない正直なものです。誰がいつどこで何のためにどうやってなにをするのかは自分も曖昧なままじゃ相手に伝わることはありえないので、そのために情報の処理、思考の整理がどうしても必要になります。才能に恵まれた人みたいにすんなり気の利いた言葉が出てこない凡才の私でも必死に頭を抱え込み、知恵を絞りながら書いては消し、消しては書くという試行錯誤のうちにだんだん自分の考えていることが明瞭になってきて、すこぶる非効率的な活動であると知りながらも、飛び交う情報に左右されることなく體の奧に潛む自分だけの本當の気持ちと向き合うことができたことが素直に嬉しいです。
いまさら書くことなんて簡単だと間違っても言えませんが、難しいからこそするのです。人間にしか持たないこの大切なスキルが人間にのみ許された考える力を守ってくれるのならば、私は喜んでペンを取り、進んで悩み出すのでしょう。
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